武田徹 立花隆が一生をかけて語ろうとしたこと。ジャーナリズムと宗教のあわいで

『評伝 立花隆』
武田徹

感化された一節

 だが、スケールは小さくとも同じ道を通ってきたがゆえに理解できることもあるはずだ。そう期待できるひとつが、先にも触れたウィトゲンシュタインへの愛着とその影響についてである。

 恥ずかしながら告白すると筆者は高校時代に拙い詩を書いていた。その時、詩の言葉はなぜ魅力的なのか、なぜその魅力は詩の言葉をほかの言葉で説明すると、粉雪が道路の濡れたアスファルトの上で溶けるように消え去ってしまうのか。そんな詩の不思議が気になり、大学進学後、卒業論文、修士論文とそのことを隠しテーマとして言語哲学の研究を続けてきた。その際に常に意識してきたのが、1922年にウィトゲンシュタインが刊行した『論理哲学論考(以下、論考と略す)』だった。

「論考」は特殊なスタイルで書かれている。まず1から7まで番号を振って一つずつ命題を示してゆき、1についてのコメントであれば1.1、それにまたコメントが必要ならば1.11、さらに1.111...と小数点以下を追加してゆくかたちで短い文章を並べてゆく。結果として1から6まではコメントが、次々に枝を広げてゆく樹を逆立ちさせたように続いて結構なボリュームとなっている。だが、7だけはたったひとつの命題で構成されている。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(1)

 しばしばひかれる一節ゆえに、というか、もはや西洋哲学史上もっとも有名な一節といえるかもしれないが、聞いたことがある人も多いだろう。筆者にとってそれは詩に向き合う姿勢を、戒めを含めて語る言葉だと思えた。詩の魅力を幾多もの言葉を連ねて説明してゆくことで腹落ちすること、「理解できた」と思えることはあるだろう。しかし、それは詩の魅力そのものに触れることでは断じてない。詩の魅力そのものは語り得ず、沈黙の中で、ただ詩の言葉が自らの存在と引き換えにそこに示したものを「了解」するしかない。

 こうして「説明可能なもの」と、「説明不可能なもの」を正しく二分しようとするウィトゲンシュタインの姿勢は、筆者と同じように立花を捉えたのではなかったか。

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