武田徹 立花隆が一生をかけて語ろうとしたこと。ジャーナリズムと宗教のあわいで

『評伝 立花隆』
武田徹

 一度目の出会い

 こうして損をしないために同じテーマを扱わないという、どちらかというと身過ぎ世過ぎ的な判断に加え、スタイルとしてもその影響を受けたくないという思いから、筆者は立花と会うのをなかば意図的に避けていたように思う。それゆえ、冒頭に書いた二回の出会いは、それでも避けきれずに起きた出合い頭の事故のようなものだった。

 一度目は、20081213日に東京大学大学院情報学環が読売新聞社と共催したシンポジウム「情報の海~漕ぎ出す船~」において。登壇者としてステージで同席した。

 立花はインターネットによってアメリカの名門新聞が廃刊になった話をしていた。1990年代後半に東京大学先端科学技術研究センターの客員教授になった立花は、理系を含む総合研究系大学ならではの優れたインターネット環境が一般社会より早く得られたこともあったのだろう、ネットに夢中になった。その後、彼が書く記事には素朴なネット礼賛が散見するようになっていた。それに対して、案の定というか、安易なネット論に対して疑問が投げかけられる機会が増え、その後、封印が解かれたように立花批判書が刊行されている。

 そのシンポジウムは、そうした批判の嵐を通り抜けた時期で、所属は東大情報学環の特任教授に変わっていたが、立花は老舗新聞社の閉鎖など現象面を取り上げ、インターネット環境によって激変するジャーナリズムについて語っていた。メディア技術が社会を変えると因果関係を簡単に決めつけている印象があり、あれだけ批判に曝されてもこの人は変われないのかと同じシンポジウムのテーブルについて感じた。

 そして、この変われないところこそ、立花が変わってしまった大きなポイントなのだと筆者は感じていた。

 たとえば『田中角栄研究』は筆者が中学生だった頃の仕事で、その後、角栄が辞任すると、我が家でも、通っていた中学校でも話題沸騰で、『文藝春秋』の本文までは読んでいなかった中学生にも、何がそこで報じられているのかはわかった。その後、ロッキード事件ウォッチャーとして、テレビでももじゃもじゃの髪型の男性がコメントしている姿がよく見られた。立花は最前線で身体を張って仕事をしているジャーナリストなのだと感じてきた。以後の仕事でも、強引に移植医療を進めようとする医療界に真っ向から論争を挑んだ『脳死』や、未開拓の領域に挑む人間が経験する意識の変容という、誰もが扱ったことのないテーマにアプローチする『宇宙からの帰還』の果敢さも印象的だった。こうしてメディア経由で知る立花は巨悪へ立ち向かい、新分野を開拓する精力的なジャーナリスト・評論家だった。

 だが、シンポジウムの場で会った立花には、かつての覇気が感じられなかった。東大に務め始めた後、それまでの仕事の流れに学生を巻き込んだ活動が加わり、立花は多産な時期を迎えていたが、2007年に検査で膀胱にがんが発見され、手術を経験している。シンポジウムは受診から手術まで無事終わっていた時期の開催だったが、やはり気落ちする面もあったのかもしれない。そこは同情に値するが、批判を受けて立って、更に高みを目指そうとして自己革新を重ねる姿勢を示さない立花は、過去とはだいぶ変わってしまった印象を感じた。

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