武田徹 立花隆が一生をかけて語ろうとしたこと。ジャーナリズムと宗教のあわいで
『評伝 立花隆』
武田徹
神保町で見かけた
二度目に会ったのは地下鉄の神保町駅で、だった。会ったというのは不正確で、こちらが一方的に目撃したのだ。神保町の書店街で買ったのだろうか、本を大量に買い込んで入れた紙袋を持っており、読書欲(書籍購買欲?)は相変わらず旺盛らしかったが、大きな紙袋を持つのもたいへんそうで、顔つきも見るからに弱々しかった。
その姿を見て、動揺する気持ちが起こった。戦後日本のジャーナリズム史に燦然と輝く偉大な業績を幾つも残してきた立花が、その活動に幕を引く時期がそう遠くなく訪れる。そう思い知って、ジャーナリストとして立花が生きてきた時間がどのようなものであったのかが改めて気になった。そして、後を追わないと決めていた時点で、読むのを止めていた、自分自身の過去を立花が語る本に、遅ればせながら手を伸ばしていた。
たとえば『ぼくはこんな本を読んできた』を読んで、筆者は驚きを禁じえなかった。読書歴を通じて立花が自身の人生を振り返る内容に、筆者自身の過去の経験と重なる部分があまりにも多くあり、筆者の興味関心と響き合う内容が本当に次々と見つかったからだ。
筆者も立花と同じく小さい頃から同じように本の虫だった。キリスト教とつかず離れずの生活をしてきたのも同じ、古今東西の思想に触れようと大学時代に様々な言語を習得しようとしていたのも同じだった。