住本麻子×ひらりさ×藤谷千明 令和に読む雨宮まみ――「こじらせ女子」から遠く離れて

住本麻子(ライター)×ひらりさ(文筆家)×藤谷千明(ライター)

セックスを書く

住本 『女子をこじらせて』のウェブ連載時のタイトルは「セックスをこじらせて」でした。本の中では複雑なセックス――ここでは性交渉でも性別でもあります――に触れていて、一日8回オナニーして泣いたとか、女だって性欲があり、自慰をするということをはっきりと書いている。こうした書き方に、ひらりささんがかつて怯んだのもわかります。


藤谷 本書では、その二つの意味でのセックスへのアンビバレントな感情が繊細に綴られているように思えます。たとえば雨宮はAVライターとして、客体化された女性性を売り物にするような仕事とは距離を置く一方、AV女優への憧憬と屈託は隠していなかった。


ひらりさ 雨宮が書いたのは、自分の身体やセックスに「値段がつかない」「売り物にならない」という自意識についてです。慎重に言語化したいのですが、自分に値段がつくと思えるまでには、自己の女性性への「肯定」が挟まるとは思うんです。自分を「売れる」と肯定できないのが雨宮だった。


藤谷 それも現代的な「正しさ」では割り切れない部分ですよね。たとえば、雨宮は10年代初頭――、おそらくAVライターとしての活動の終盤にあたると思うのですが、AV監督の欲望の源泉に迫るようなインタビュー連載をしていました。男性の性的な欲望に対して「断罪」するのではなく「理解」を示そうとするスタンスというか。


ひらりさ 彼女に、ユング派が言うところの「父の娘」的なところがあるのは、関係しないでしょうか。


藤谷 とはいえ、たとえば映画『かぐや姫の物語』について書いた文章(「『かぐや姫の物語』の、女の物語」、ブログ「戦場のガールズ・ライフ」13年12月2日)は、明確に作品を家父長制批判の文脈で読み解く内容です。


住本 「40歳がくる!」を読んでも、父に対する敵意は明確に描かれています。父親を倒さないと、外の世界に出られないと。


ひらりさ そもそも倒したいと思う程度には親密なのだろうなと感じます。だからこそ男性に対して、興味を持ち続けられた部分もあるのではないかと。今の女性向けエッセイやフェミニズムの文脈では、「母の娘」がトレンドだと思うんです。田房永子(たぶさえいこ)『母がしんどい』(KADOKAWA/中経出版)や、信田さよ子『母が重くてたまらない』(春秋社)、また最近話題になった齊藤彩『母という呪縛娘という牢獄』(講談社)のように母娘の話が多い。彼女が早逝しなかったら「母の娘」の文脈ももっと出てきたのではないか。また、今のフェミニズムの一つの課題として、男女双方に向けて語りかける人がいない点があると考えています。


藤谷 今のインターネット上の言論空間は、「女子校」「男子校」のように分かれている印象があります。「私たち」と「僕・俺たち」的な。一方、雨宮の文章は「代弁」はしていなかった。あくまで「あなた」と「私」ですよね。


ひらりさ その点を彼女は、「共学」的にやろうとしていたのかな。男性のことを知ろうとして、話しかけてもいた。そこから生まれてきたものを、見てみたかったなと思います。


(続きは『中央公論』2024年1月号で)


構成:山本ぽてと

中央公論 2024年1月号
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住本麻子(ライター)×ひらりさ(文筆家)×藤谷千明(ライター)
◆住本麻子〔すみもとあさこ〕
1989年福岡県生まれ。早稲田大学文学研究科日本語日本文学コース修士課程修了。『群像』『文學界』『ユリイカ』『早稲田文学』や同人誌『G-W-G』などに批評を寄稿。共著に『文豪悶悶日記』がある。

◆ひらりさ
1989年東京都生まれ。ロンドン大学ゴールドスミス校社会学研究科修士課程修了。著書に『沼で溺れてみたけれど』『それでも女をやっていく』、オタク女性ユニット「劇団雌猫」名義での共著に『浪費図鑑』など。

◆藤谷千明〔ふじたにちあき〕
1981年山口県生まれ。工業高校を卒業後、自衛隊に入隊。その後職を転々とし、フリーランスのライターに。著書に『オタク女子が、4人で暮らしてみたら。』、共著に『バンギャルちゃんの老後』など。
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