ブルース・リー没後半世紀、日本で人気が衰えないわけ

ちゃうシンイチー(ブルース・リー研究家)×中島 恵(ジャーナリスト)
中島 恵氏(左)、ちゃうシンイチー氏(右)
「ブルース・リー研究家」と中国の社会事情に詳しいジャーナリストが、ブルース・リー人気の深淵に迫る。
(『中央公論』2024年4月号より抜粋)

人気を支えるのは思春期に映画を観た世代

中島 昨年はブルース・リー(1940~73)の没後50年の節目でしたが、今年は辰年で、辰年・辰の刻生まれのブルースは年男、そして来年は生誕85年にあたります。ちゃうさんは「ブルース・リー研究家」としてこの3年間を盛り上げようといろいろなイベントに関わっていますが、そもそも日本人ですよね?(笑)


ちゃう 日本人ですよ(笑)。15年ぐらい前からブルース・リーの同人誌を作っています。名前は、香港の俳優で映画監督のチャウ・シンチー(周星馳)が、ブルース・リーとウルトラマンのファンだと知って親しみを覚えたのと、本物のチャウ・シンチーじゃないよという意味で関西弁の「ちゃう(違う)」とかけて「ちゃう」。シンイチーは、本名の真一からです。


中島 なるほど。ブルース・リーと最初に出会ったのはいつですか。


ちゃう 僕が小学3年生だった1974年に父親と映画館に行って初めて『ドラゴン危機一発』を観ました。当時は第1次ブルース・リーブームの真っ只中です。その時は裸の男が棒を持って人を殴っているスチル写真が怖くて拒否反応を示しましたが、スクリーンの彼を一目見てそのスター性に圧倒されました。

 4年後の78年、僕が中学1年生の時に『死亡遊戯』が公開され、第2次ブームが来ます。73年に亡くなったブルース・リーの遺作を完成させたこの映画を観て、僕はものすごいカルチャーショックを受けました。

 今でもブルース・リーの人気を支えているのは、この時に劇場でリーを観た、僕と同じ現在50代から62、63歳くらいまでの方です。


中島 思春期に観た人たちですね。


ちゃう そう。僕だけじゃなくて、あの時にカルチャーショックを受けた人たちは、ブルース・リーをこじらせて、それがいまだに治らずにいる(笑)。ブルース・リーの映像をちょっとでも目にすると、中学生くらいの時にドキッとした得体のしれない衝撃のスイッチが入ります。

 僕は、73、74年くらいから日本社会はパラダイムシフトをしたと考えています。73年7月にブルース・リーが死に、12月に『燃えよドラゴン』が日本で公開され、74年に大ブームが起きた。

 同じ年に「宇宙戦艦ヤマト」がテレビで放映。『死亡遊戯』公開の78年には『スター・ウォーズ』が日本に上陸。同じ年に、薬師丸ひろ子という新しいタイプのアイドルが出てきた。ニューミュージック・ブームが起こり、イエロー・マジック・オーケストラが結成されたのも78年です。さらに、それまで「青春もの」ドラマの定番だった「飛び出せ!青春」や「われら青春!」が武田鉄矢の「3年B組金八先生」に代わった。そういう転換期にブルース・リーもいたわけです。

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