小川寛大 戦時指導者リンカーンの実像

小川寛大(『宗教問題』編集長)

戦時指導者リンカーンの軌跡

 しかしながら、リンカーンの本質とはそもそも戦時指導者である。それは彼がアメリカの大統領を務めていた1861年から65年が、まるまる南北戦争の期間と重なることからも明らかだ。

 リンカーンは現在、例えば子供向けの絵本などで「道徳的な聖人」といった描かれ方さえされる人物である。生前のリンカーンが、そういう人あたりのいい誠実な人物だったことは、数多くの史料が伝えている。しかし、彼はやはり疑いもなく戦時の指導者だった。それも、アメリカ史上最大の戦争を戦い、祖国を勝利に導いた、極めて有能な戦略家だった。もし南北戦争で合衆国(北軍)が連合国(南軍)に敗北することがあれば、現在の強大なアメリカは誕生しえなかった。

 また、アメリカ合衆国は南北戦争に勝利したからこそ、今の強大な軍事力を支えられるほどの経済大国の道を歩み出したと言える。そういう意味でリンカーンは、まさに超大国アメリカの基礎を固めた人物と言っていい。それゆえに、アメリカ国民に「歴史上、最も偉大な大統領は誰か」といったアンケートを行うと、初代大統領ジョージ・ワシントンさえ抑えて、リンカーンの名が上位に挙がる。

 しかし、そんなリンカーンは決して、同時代の人々に最初から手放しで評価されていたような人物ではなかった。

 1860年11月の大統領選挙に勝利したとき、リンカーンは多くの選挙民から、運に恵まれて当選しただけのダークホース的存在だと思われていた。

 なぜなら、リンカーンは共和党(当時奴隷制に反対)の候補であったが、敵対陣営である民主党は奴隷制への対応をめぐって組織が分裂し、最初から共和党と五分の勝負ができる状態ではなかった(このうち南部諸州を拠点とした勢力が、翌61年にアメリカ連合国を結成する)。共和党内にいたリンカーンのライバルたちも、党内のさまざまな派閥抗争に巻き込まれるなどして、十分な選挙戦を展開できない状態だった。

 リンカーンはそうした状況を賢く利用し、またライバルたちの失点をむしろ誘発さえしながら、極めて巧みに大統領のイスを手に入れたということが、現在ではわかっている。しかし、それは近年の研究でわかってきたことで、当時の彼はまさに棚ボタで選挙に勝った、実力未知数の人物だと思われていた。

 1809年に貧しい農民の子として生まれたリンカーンは、辺境だったイリノイ州で活動していた弁護士で、その地域ではそこそこ知られた政治活動家だった。しかし、中央政界でのキャリアにはとぼしく、軍隊での経験もほとんどなかった。すぐそこに内乱勃発の危機が迫っている中で、当時の人々がリンカーンの資質を不安視したのは当然である。合衆国元司法長官で、当時のアメリカを代表する法曹家だったエドウィン・スタントン(後にリンカーン内閣陸軍長官)は、リンカーンを「ゴリラのような男」と言って馬鹿にしていた。駐米イギリス公使のリチャード・ライアンズもリンカーンに関し、「成り上がりの粗野な農民に過ぎない」と、極めて低く評価していた。

 リンカーン内閣の閣僚、つまり彼の部下であるはずのウィリアム・スワード国務長官やサーモン・チェイス財務長官たちですら、リンカーンを露骨に見下しており、自分こそが真のアメリカのトップだと固く信じているありさまだった。

 このような中で始まった南北戦争はその前半、北部合衆国に不利な形で推移する。当時、北部23州の人口は約2200万人。対して南部11州は約900万人。また綿花栽培を主要産業としていた南部に工業力はあまりなく、対して北部では新興資本家たちが次々に製鉄業などを立ち上げているといった社会状況にあった。冷静に考えれば戦況は北部有利なのだが、開戦当初、リンカーンはこの利点をまったく生かすことができなかった。

 1861年7月に起こった南北戦争開戦後初の本格的会戦、第一次ブルランの戦いで北軍は敗北。翌62年3月に発動されたアメリカ連合国首都、バージニア州リッチモンドに対する侵攻作戦、半島作戦も7月までに頓挫して撤退する。同年12月のフレデリックスバーグの戦いや、翌63年4月末から5月のチャンセラーズビルの戦いに至っては、北軍は壊滅的被害を出して惨敗した。

 この南北戦争初期の北軍の低迷ぶりの原因は何なのか。過去、多くの歴史家たちがさまざまな分析を行っているのだが、そのうちの一つとして挙げられるのが、上流階級出身が多かった当時の高級将校たちがリンカーンを見下しており、指示に服さないような例があったことである。

 北軍の将校たちは、貧しい生まれでまともな学歴もないリンカーンよりも、同じウェストポイント士官学校で学び、内乱勃発後は故郷の南部に帰っていった南軍将校のほうにむしろ親近感を抱き、戦場で旧友に会ったら手を抜く、などといったことが当時の新聞では率直に指摘されていた(そして実際にそのようなことはしばしばあったらしいと、最近の研究でも明らかになっている)。

 一方で、新国家・アメリカ連合国の大統領となっていたのは、ジェファーソン・デービスだった。内乱前のアメリカ合衆国で上院議員、陸軍長官を務めたエリート政治家で、軍事政策に明るい人物としても知られていた。

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