小川寛大 戦時指導者リンカーンの実像
南と北の大統領
この「二人の大統領」について人々はどのように見ていたのか。当時のアメリカで活躍していた作家のアーテマス・ウォードは次のようなことを書いている。
〈2人の女性が列車に乗って話していた。「私は南部が勝つと思います。ジェファーソン・デービスは神に祈る男だから」「リンカーンもお祈りはするでしょう」「エイブが祈ったって、神は冗談を言われているとしか思わないでしょう」〉
ウォードはいわゆるユーモア作家で、この文章は彼一流の創作の可能性が高い。しかし、当時の人々にリンカーン、デービス両人がどういうふうに見られていたかの証拠にはなるだろう。
このような状況を、リンカーンはどう克服していったのか。一つは毅然とした態度で、信賞必罰に徹したことである。リンカーンは、彼が望む成果を上げなかった高級軍人たちは、戦況が切迫する中でも容赦なく解任した。
実際、北軍の主力部隊の一つであったポトマック軍の司令官は、開戦直後の創設から1863年6月までの約2年間で4回も代わっている。
62年11月に解任されたジョージ・マクレラン将軍(その年の9月に行われたアンティータムの戦いで、リンカーンの望む戦果を上げられなかった)は当時国民的人気のあった軍人だったが、リンカーンは解任処分を断行している。またリンカーンは軍人だけでなく、サーモン・チェイス財務長官やサイモン・キャメロン陸軍長官ら、自分に反抗的だったり、またその職務に不適格と判断した閣僚たちに対しても、必要とあれば解任をためらわなかった。
もちろん、それが単に恣意的な人事を繰り返していただけならば、最終的にリンカーンは足をすくわれることになっただろう。しかし、リンカーンには天性のものとも感じられる確かな戦略眼があり、彼の振った大ナタ人事は、着実に北部を戦略的な優位へと導いた。
特に1864年3月、それまで辺境の戦線で活動していた地味な軍人、ユリシーズ・シンプソン・グラント将軍の才能に目をつけて北軍総司令官に就けた人事はズバリと当たり、グラントは65年にかけて一気に南軍を殲滅していく働きを見せた。
こうした事実を取り上げて、イェール大学歴史学部教授のジョン・ルイス・ギャディスは、リンカーンは「クラウゼヴィッツ(プロイセンの軍事思想家)の思想を直観的に理解していた」(『大戦略論』村井章子訳)とまで評価している。
1979年熊本県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。宗教業界紙『中外日報』記者を経て、2014年に宗教専門誌『宗教問題』編集委員、15年に同誌編集長に就任。また、全日本南北戦争フォーラム事務局長を務める。著書に『神社本庁とは何か』『南北戦争』など。