大山 顕 戦前・戦争写真のカラー化は何を見えなくしたのか――色づけが生み出すスペクタクル

大山顕(写真家・ライター)

写真と色覚の「色眼鏡」

 ただ、実はぼくは、この色の正確性に関してはあまり興味がない。そもそも庭田氏・渡邉氏のプロジェクトの主眼は着彩ではなく、写真に写っている人やその家族・関係者あるいは専門家をたずね、彼らとの対話によって色を特定していくことにある。AIの「間違い」はむしろ対話のきっかけなのである。

 ぼくが問題だと思うのは、色に正確性があるという考え自体だ。この点に関連してたいへん興味深い論考がある。2019年にハーバード大学の准教授サラ・ルイス氏が、『The New York Times』に寄稿した「The Racial Bias Built Into Photography(写真に組み込まれた人種的バイアス)」だ。これによれば、カラーフィルムと現像の色は、白人の肌に最適化されていたのだという。

 かつて現像ラボの技術者は「シャーリー・カード」という、茶色の髪の白人女性の参考写真を、色校正に使っていた。「正しい現像」とは、シャーリーの顔がきれいに見えることを意味する。カラーフィルムのメインターゲット消費者が白人だったからだ。そしてこの色校正の考え方は、現在のデジタル写真のカラーバランスにつながっているという。

 つまり、あとから色づけしたものではなく、カラーフィルムで撮った写真であっても、そこに写った色は実際の色ではないわけだ。ということは、おそらく自動色づけAIが学習材料にしているカラー写真の色自体にもバイアスがかかっている。

 驚くことに、これは写真の話だけにとどまらない。実は人間の視覚システムそのものが、肌の色に対するバイアスにとらわれている。理論神経科学者マーク・チャンギージーは『ヒトの目、驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』(ハヤカワ文庫)の中で、人間の色の感知能力が、肌の色を中心とした部分に偏っていると指摘する。

 これは、ヒトが互いの顔色を読むことによって社会を維持してきたからだという。仲間の顔色が、体調の悪いときに蒼白になっていたり、怒りや恥ずかしさなどで赤くなっていたりすることにいち早く気がつく必要があったため、ほかの生物では気づけないような肌の色の違いに敏感になったのだ、と。

 もし人間の視覚が、可視光線内の波長分布に対して何の偏りもなくフラットに反応するようにできていたら、人種による肌の色の違いをそれほど意識することはなかったかもしれない(だからといって差別が容認されるわけではもちろんない)。

 つまり、写真の色にとどまらず、ぼくらの色覚そのものにバイアスがかかっているのだ。ぼくらはあらかじめ「色眼鏡」をかけている。どうやってもそれを外すことはできない。

 何が言いたいのか。実際の色であろうとなかろうと、色がなかったものに、あとから色を付ける行為自体が、一種の偏見、あるいはこう言ってよければ「政治性」を帯びざるをえない、ということだ。

「無色透明な」色などない。カラーフィルム/プリントが発した色であれば、ルイス氏が指摘した、媒体それ自体が歴史的に抱えている問題と共に批評できる。しかし、あとから色を付けるならば、「写真に色を付けるとはどういうことか」という原理的な問題を、そこに写っている物事とは別に考える必要があるはずだ。

 渡邉氏はこうした問題に対してあまりにも無頓着すぎる。たとえば単純な話、「記憶の解凍」プロジェクトがアメリカで行われたら、肌の色の「再現」に関して大炎上が起こったのではないか。ぼくがこのプロジェクトに覚えた違和感の大きな理由はこれだ。



(続きは『中央公論』2022年10月号で)

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大山顕(写真家・ライター)
〔おおやまけん〕
1972年生まれ。千葉大学工学部卒業後、松下電器産業(現パナソニックホールディングス)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めたのち、写真家として独立。著書に『立体交差』『新写真論』、共著に『ショッピングモールから考える』など。
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