老兵は死なず、ただ調べるのみ......92歳にして実証史学にこだわる我が生涯
研究テーマは予備で複数を
学生には、何か研究しようと思うのなら、テーマは複数持ちなさいと伝えてきました。常に念頭に置いているテーマについては、それを補強するような情報が向こうから飛び込んでくる瞬間があります。それをつかんで伸ばせば論文になる。ただし注意すべきは、無理をしてまでモノにしようとしないこと。書くならしっかりした答えが出て、裏付けもとれてからです。当然、モノにならずにそれきりになるものも出てきます。だから複数のテーマが必要なのです。
一つのテーマに専念すべきだという人もいますが、その場合、七、八分目までしか詰め切れていないが万般の事情で論文にまとめざるを得ない、ということが起きかねません。
私が日本の近代史を研究しようと思い立った原点は、小学生だった戦時中に、新聞に載った大本営発表をすべて書き写した体験にあります。自らの手で書くと記憶力が増幅するのか、何月何日に何があったかは、今でも忘れていません。それがその後の私の強みになりました。
大学在学中、巣鴨プリズンのA級戦犯へのヒアリングを始めたのは、大本営発表の実情はどうだったのだろう、という関心からでした。東京裁判では多くの事実が明らかになったのですが、なお謎のままの部分も多かった。たとえば満洲事変の発端となった満鉄線路の爆破事件(柳条湖事件)について、私が末端の実行役も含めた細部まで突き止めるのには30年かかりましたね。
実際に爆破したのは奉天独立守備隊の河本末守(こうもとすえもり)中尉という人で、戦争中に病死したのですが、河本中尉と一緒に線路の巡回をした兵士が5、6人いた。彼らを探すのが大変でした。最後にたどりついた2人のうち1人が仙台で蕎麦屋をやっていて、その人から話を聞いた。
河本中尉と一緒に1931年9月18日の夜10時頃、線路脇を巡回していると、突然中尉が「伏せろ!」と叫び、数メートル後ろでドーンと爆発が起きたという。私が「その爆破は河本中尉が自分でやったのですね」と聞くと、「そう思うけれども、断定はできません。私は反対方向を向いていて直接見ていないので」と。大言壮語する人も多いのに、なんと確かな歴史感覚を持っている人だ、と感激しましたね。
河本中尉による爆破直後、実際に中国軍の兵営を攻撃した中隊長にも会いに行きました。ある程度時間が経過すると、他にも喋っている人がいるなら俺も喋ろうか、という気分になるのでしょう。そこで攻撃の具体的な方法がわかったのです。
爆破した線路の破損状況については、片方のレールが80センチほど切れたといいます。でも、直後にその上を満鉄の急行列車が脱線せず通過している。そんなことが可能なのか。国鉄の研究所に頼んで調べてもらうと、理論的には可能だとわかりました。保線区長も見つかり、レールの修理に行ったとの証言も得ることができた。そこまで調べ上げるのに30年かかったのです。気が長くないと歴史家は務まりません。(笑)
構成:髙松夕佳
(『中央公論』11月号では、この後も南京事件の調査時の苦労話や、記者や編集者が望む証言を捏造する「詐話師」との遭遇など、現代史調査にまつわるさまざまな逸話を明かしている。)
1932年、山口県生まれ。東京大学法学部卒業後、大蔵省入省。財政史室長などを経て76年退官。米プリンストン大学客員教授、千葉大学教授、日本大学教授などを歴任。法学博士。専門は日本近現代史、軍事史。『南京事件』『昭和史の謎を追う』(菊池寛賞)、『明と暗のノモンハン戦史』(毎日出版文化賞)など著書多数。





