皇后・女性皇族の戦争――「香淳皇后実録」を読む
日中戦争と各妃の差遣
1937年7月7日に日中戦争が勃発すると、香淳皇后が戦地に出征する軍人や戦地から帰還する軍人に面会し、「お言葉」をかける機会が増えた。「香淳皇后実録」には、同年8月17日に上海派遣軍司令官として出征する松井石根(いわね)と、38年2月16日に中支那派遣軍司令官として出征する畑俊六への「お言葉」が掲げられている。順に引用しよう。
「今回上海派遣軍司令官ノ重任ヲ帯ヒテ彼地ヘ出発スル趣洵(まこと)ニ御苦労ニ思フ就テハ身体ヲ大切ニシテ奮励センコトヲ望ム」
「今回中支那派遣軍司令官ノ重任ヲ帯ヒテ彼地ヘ出発スル趣洵ニ御苦労ニ思フ就テハ身体ヲ大切ニシテ御奉公ヲスルヤウニ」
最後の「奮励センコトヲ望ム」が「御奉公ヲスルヤウニ」に変わったのを除けば、全く同じ文言であることがわかる。皇后自身の戦争に対する主体的な意思は感じられない。明治政府が確立させた天皇と皇后の役割分担を忠実に守り、軍事には口を出さないという皇后自身の姿勢は、このあとも続くことになる。
37年11月17日には、傷病兵を慰問するため、日帰りで横須賀海軍病院を訪れている。皇室用語で言えば、「行啓(ぎょうけい)」である。日清戦争に際して皇后美子が呉の海軍病院を訪れたことを意識した行動と思われるが、日中戦争は日清戦争よりもはるかに傷病兵の数が多く、全国各地の病院に彼らが収容された。それらの病院を皇后が一人で回ることは、とうてい不可能と言ってよかった。
38年4月1日、皇后は前例のない命令を下した。「今次の支那事変による戦傷病者の御慰問及び銃後援助事業概況の御聴取」を目的として、皇族妃や王公族妃を各地に差遣させるというものだった(「香淳皇后実録」同年4月9日条)。また4月21日には、日帰りが可能な東京・神奈川・埼玉・千葉各府県にも皇族妃を差遣する命令を下した(同、同日条)。皇后は自らの「分身」を遣わし、まさに全国規模の「行啓」を行わせたのだ。
具体的には以下の表のように、皇族妃や王族妃が4月10日から5月26日まで国内各地に差遣された。
皇后による差遣はさらに続いた。6月3日には朝鮮と台湾と関東州にも皇族妃を差遣させるという命令が下された(同、同年6月7日条)。具体的には6月13日から7月7日まで東久邇(ひがしくに)宮妃聡子(としこ)が朝鮮に、6月20日から7月2日まで梨本宮妃伊都子が関東州に、6月24日から7月13日まで竹田宮妃昌子(まさこ)が台湾に、それぞれ差遣された。
つまり沖縄県を除く内地や樺太を除く植民地、租借地に皇族妃や王公族妃をくまなく差遣することで、どこでも傷病兵が手厚い慰問を受けられるようにしたわけだ。天皇とは区別された、皇后独自のリーダーシップを読み取ることができる。
(『中央公論』3月号では、女性皇族の慰問の実態、皇后と皇太后の違い、皇后の戦勝祈願などについて論じている。)
1962年東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退。専門は日本政治思想史。明治学院大学教授、放送大学教授などを歴任。『「民都」大阪対「帝都」東京』(サントリー学芸賞)、『大正天皇』(毎日出版文化賞)、『滝山コミューン一九七四』(講談社ノンフィクション賞)、『昭和天皇』(司馬遼太郎賞)、『戦後政治と温泉』など著書多数。





