せっかくの金融危機を世界は無駄にしている
危険な「裸の」CDS市場
金融規制の問題として、普通の銀行とカジノ型銀行の分離を取り上げてきたが、他にも問題はたくさんある。一例として「裸の」CDS(Naked CDS)市場を取り上げよう。
AIGのような、保険会社でありながら、他の銀行と同様に自前のギャンブルに深入りする会社が今では多くなってしまったが、本来の保険事業とは、社会的に有用な立派な事業であった。家を買う人が、火事や盗難に遭う可能性に備えて、掛け金を払って大損を避ける。一家の大黒柱が突然亡くなる可能性に備えて、生命保険をかける。それは合理的な行動だ。
同様に、保有する社債や国債を発行している会社や国が破産する可能性に備えて保険をかけることも合理的である。比較的安定した会社なら、社債の額面の一パーセントか二パーセントで保障を買うことができる。
ところが妙なことに、こうした保険は英米法では、保険法の規制を受けない。金融業者にとって都合のいいことに、保障されているのは「証券」だから、証券法でしか規制されない事業となる。「社債保険」「国債保険」は、「保険契約」でなく、Credit Default Swap(CDS=企業の債務不履行にともなうリスクを対象にした金融派生商品)とうまい名前がつけられている。
「バラの名前を何にしようと、香りには変わりはない」とシェークスピアは言ったが、CDSと保険には一つ大きな違いがある。保険の場合、自分の家に保険をかけるのはいいが、他人の家に勝手に保険をかけることは許されない。こっそり火をつけてしまう誘惑にかられるのは、あまりにも明らかだからだ。
一方、アメリカを含む多くの国では、当該会社の社債を一枚も持っていなくても、その社債に対するCDSはいくらでも市場で買うことができる。これを「裸の」CDSという。
「裸の」CDSは、多くの金融業者、ヘッジファンドにとって理想的なギャンブル市場となっている。何かの情報を先取りして、「あの会社は危ないかも」と聞けば、掛け金一パーセントで市場に出ているCDSを買おうとする。それを嗅ぎつけた他の人も買おうとして、銀行などが掛け金二パーセントの新契約を発行する。すると、「あの会社はやはり危ない」と、取引会社や下請け、資材供給会社などが警戒し、信用売りつけを拒む。そして当該会社の実態は悪化し、評判はさらに悪くなり、市場で新CDSの掛け金は三、四パーセントと上がる。そうした「人工的」スパイラルに嵌まり、不合理にも実際に倒産してしまう企業は少なくない。
ゼネラルモーターズ(GM)が倒産寸前になった時、もし国家資金の注入で救済されていなければ、倒産による社債保有者の損失額の合計より、CDS契約で儲かる人たちの利益額の合計のほうが大きかったそうだ。
今のギリシャ国債のCDSの掛け金は一三パーセントぐらいまで上がっているが、デフォルトの扱い方によって契約の解釈も変わり、ギャンブラーたちは自分は大儲けできるのかどうかと、わいわい騒いでいる。
デモの核心にある格差問題
さて、地味なモノづくりの国、日本の読者には、占拠運動に参加する人たちのウォール街に対する憎悪の根拠がわかるだろうか。
ウォール街占拠運動の原動力は、銀行従業員─役員、局長クラスとギャンブル・トレーダーたち─のボーナスが天文学的数字に達することに対する怒りが最大の動機である。「経済システムを崩壊寸前にし、一〇〇〇万人もの失業者を出し、将来の経済成長を危うくしたにもかかわらず、我々の税金を何兆ドルも注ぎ込ませ、涼しい顔をしてこれまでと同じように何億、何十億ドルものボーナスをとっているとは何事だ!」と。
日本で「格差問題」といえば、主として、終身雇用の慣習が依然として生きながらえている部門に就職した中流階級と、その部門に入るのに成功しなかったワーキング・プアやフリーター、長期失業者との格差のことをいう。かつては新聞などで、「高額納税者」の番付表が、毎年発表されていた。そこでは、小説家とか芸能人とか、中小企業で「当たった」企業家とか、土地売買の富豪など、個人に焦点が当てられ、階層・階級といった構造的な問題は問われなかった。給与体系の上層部にいる大企業の役員、社長などの報酬はあまり問題視されなかったのである。それもそのはずで、一九七五年から九九年まで一般従業員の年収(賃金、賞与、福利厚生)と役員の年収(給与及び賞与)は一対二・五、わずかな景気の変動によって、二・三倍、二・七倍程度になる以外は安定していた。比率が五倍になったのは今世紀に入ってからだ。その比率が四〇〇倍となる企業がザラにあるアメリカとは次元が違う。