中国を警戒し、接近する日露

新・帝国主義の時代【最終回】
佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

 森氏は、今回の訪露の準備を入念に行った。特に重要なのは、プーチン大統領との会談前に、森氏が首相府横のストルイピン元首相の銅像に献花したことだ。この銅像は、ストルイピンの生誕一五〇年を記念して去年建立されたものである。ストルイピンは、一九〇五年の第一次ロシア革命後の混乱収拾や改革で大きな成果をあげた政治家だ。特にロシアの将来は、シベリアと極東の発展にかかっていると考え、投資と人口増加政策に取り組んだ。同時に反体制派に対する弾圧を徹底的に行った。多くの革命家が処刑されたので、絞首台が「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれたくらいだ。最期は、皇帝ニコライ二世に同行して訪れたキエフ(現在のウクライナの首都)での観劇中にピストルで暗殺された。プーチン大統領はストルイピンをとても尊敬している。銅像建立のためにプーチン氏も寄付をした。去年十二月二十七日、プーチン氏はメドベージェフ首相とともにこの銅像に献花した。

 銅像への献花という象徴的行為を通じて森氏は、表と裏の二つのメッセージをプーチン大統領に伝えた。表のメッセージは、「シベリア、極東開発で日露の戦略的提携を深めよう」ということだ。裏のメッセージは、プーチン大統領が異論派(ディシデント)、外国の支援を受けたNGO、NPOに対して弾圧政策をとっていることに関し、ストルイピンへの献花を通じ、「あなたがストルイピン流の反体制派政策を取ることを黙認する」という意味だ。

 会談で、森氏はプーチン大統領に「一〇〇年前に極東開発の重要性を強調した帝政ロシア時代の首相ストルイピンの銅像を訪れ、献花した。あなたは、かつてストルイピンが行った極東開発でロシアを強化していくという方針を、ひとつの原点として、国家運営に取り組んでいるのではないか」と質すと、プーチン大統領は「その通りだ」と答えた。また、献花に対してプーチン大統領は「スパシーボ(ありがとう)」と謝意を述べた。ストルイピン銅像への献花という森氏の行動は、プーチン大統領の琴線に触れた。

 北方領土交渉の環境整備の観点からも今回の会談は大きな意味を持った。朝日新聞は、〈北方領土問題をめぐってプーチン氏は昨年3月、朝日新聞などとの会見で「引き分け」という日本語を使って解決に意欲を表明している。プーチン氏はこの日の会談で「引き分けとは、勝ち負けなしの解決だ。双方、受け入れ可能な解決を意味する」と説明した。/両氏は日ソ共同宣言の有効性を確認した2001年のイルクーツク声明の重要性について改めて確認。森氏は「領土問題を最終的に解決するためには首相と大統領の決断が必要だ」と指摘し、プーチン氏は「両国間に平和条約がないことは異常な事態だ」と語った。〉(二月二十二日、朝日新聞デジタル)と報じた。

 重要なのは、森氏がプーチン大統領に「引き分け」の内容を直接質したことだ。森氏によれば、プーチンは紙に鉛筆で枠を書いて、場外ぎりぎりのところで日本とロシアが組み合っていると印をつけ「ここに両国がいる。これじゃプレーができないので、真ん中に引っ張ってこないといけない。そこから『ハジメ』の号令をかける」と述べた。要するに、まず交渉を開始して、そこからどのような合意が得られるかについての「出口論」で交渉することをプーチン大統領は主張したのである。

 もっとも、イルクーツク声明の重要性については確認しているので、平和条約締結後にロシアが歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すことについて合意した一九五六年の日ソ共同宣言と、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の四島からなる北方領土の帰属に関する問題を解決して平和条約を締結することを約束した一九九三年の東京宣言を前提に交渉を行うことになる。

 今回、森氏とプーチン大統領は、北方領土問題について、具体的な交渉は行っていない。重要なのは、プーチン大統領に北方領土問題を「引き分け」で解決する具体的な腹案がないことが明らかになったことだ。同時に「北方四島の日本への帰属をまず確認して、それから条件について話し合う」という日本外務省の伝統的な「入口論」では、交渉の展望がまったくないことが、今回の森・プーチン会談で明確になった。ひとことで言うと、北方領土交渉の帰趨は、安倍首相とプーチン大統領の首脳会談ですべて決定されることになる。

「出口論」で交渉を行う

 今回、森氏が行ったアプローチで特徴的なのは、森氏自身が「出口論」で交渉を行うという認識を示した上で、北方領土問題を他の経済的、地政学的問題と同じ「バスケット」に入れ、日露関係の総合的発展の中で北方領土問題を動かそうとするアプローチをとったことだ。二十一日、モスクワで行った森氏の記者会見から、バスケットの中に以下のテーマが含まれていることがわかる。

(一)日露のエネルギー協力。プーチン大統領が「エネルギー相を長とする代表団を、二十五日から始まる週にも日本に派遣したい」と述べた。もっとも同席の上月欧州局長は右事実を承知していなかった。外務省、経済産業省が連携していないことで、戦略的外交が展開できていないことが露呈した。
(二)北朝鮮問題をめぐる協力。プーチン大統領は「北朝鮮の核実験は断じて容認できない」との意向を表明するとともに、「(北朝鮮問題は)安倍首相とじっくり話し合う大事なテーマである」と述べた。
(三)スポーツ交流。特にレスリングをオリンピックの種目に残すことに関する日露協力について森氏とプーチン大統領の見解が一致した。
(四)農業協力。プーチン大統領より、「極東には広大な土地があり、日本の北海道とも気候が似ている。農業分野でも是非協力したい」との話があった。

 二十二日、森氏は、モスクワ国際関係大学(MGIMO)で講演を行った。同行記者らに事前に配布された予定稿には、北方領土における日露の新たな法的管轄に関する興味深い以下の提案が含まれていた。

〈「現在住んでいるロシア人は現状のようにロシア法のもとで住める」という状態と「日本人も日本法のもとで住める」という矛盾が解決できるものでなくてはなりません。

 それを生みだすのは知恵と熱意です。これを両国で追求する、これがこれからの政府間の交渉の核になるでしょう。〉

 しかし、この部分は実際の講演では読み上げられなかった。この予定稿を元に、「北方領土で法的共同管理を提案」という見出しで記事を準備していた記者は、あわただしく修正したということだ。外務省が「政府の基本的立場と矛盾するのでやめてほしい」と直前に森氏を説得したのか、あるいは、当初から、予定稿には書くが実際には読み上げないという形で、外務省が法的共同管理に踏み込んだ場合のロシア政府と日本世論の反応を見るという高等戦術をとったのか、現時点で筆者は判断に足る十分な情報をもっていない。

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