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中国を警戒し、接近する日露

新・帝国主義の時代【最終回】
佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

 いずれにせよ、北方領土に属人的な法的管轄を導入するというのは、共同経済活動を可能にする選択肢の一つである。

 講演の結びで、森氏は、「雄大な歴史観と高度な思想をもって領土問題を解決し、懸案の日露平和条約を締結し、その上に立って、日露間の政治、経済、学術、技術、文化、スポーツ、あらゆる分野での交流を飛躍的に進展させ、しかも世界の平和と発展に寄与する、これが私の生涯の最後の仕事だと心に定めています。それを果たした後、父と母の眠るシェレホフの墓地に私も共に眠る、これが私の覚悟であることを申し上げて、講演を終わらせて頂きます」と述べた。MGIMOからは、外交官やビジネスマンだけでなくSVRに就職する者も多い。森氏の父・茂喜氏は、ソ連時代からロシアとの交流に尽力したので、遺骨が東シベリア・イルクーツク州のシェレホフ市に分骨されている。遺言に従って、森氏の母・秋子氏の遺骨もそこに分骨されている。将来のロシアのエリートに対し、森氏は「私はロシアに骨を埋める」と宣言したのである。森氏の発言は聴衆に強い感銘を与えた。

 今後の外交日程について、〈日ロ両政府は大型連休中の首相の公式訪ロで調整を進める方針だ。〉(二月二十二日、朝日新聞デジタル)ということであるが、五月一〜三日はロシアはメーデーの休日で、四〜五日は土日なので、五月に入ってからの大型連休中に首脳会談が行われる可能性はほぼない。〈安倍首相の特使としてロシアを訪れている自民党の森元首相は22日午前(日本時間22日午後)、モスクワのロシア下院でナルイシキン下院議長と会談した。/議長は、安倍首相が予定している公式訪露の時期について「4月末に予定されている」ことを明らかにした。〉(二月二十三日、読売新聞電子版)。その後、大統領府は、「四月末の安倍訪露は決まっていない」とナルイシキン発言を否定する情報をモスクワの日本人記者に流しているが、ロシア側からすれば、四月末以外にプーチン大統領と外国要人の会談日程を確保することは難しい。

 四月末に日露首脳会談が行われるためには、遅くとも四月中旬までには、首脳会談で発表される合意文書が大筋でまとまっていなくてはならない。三月に行われることになるであろう日露次官級協議で、領土問題に関する協議が行われることになるが、四月末までに、北方領土問題に関し、両首脳が政治決断を行う環境を整えることは非現実的である。安倍首相の訪露は、両首脳の信頼関係構築にあてられ、その次のプーチン大統領訪日時が北方領土交渉の正念場となる。この機会に北方領土問題に関する何らかの妥協が成立しなければ、平和条約(北方領土)交渉はモメンタムを失うことになる。

ロシアからの変化球に備えよ

 ロシアの日本専門家の間で、今後、領土問題に関する対日強硬論が強まってくる。すでにその兆候が現れている。ロシア科学アカデミー極東研究所の機関誌『極東の諸問題』二〇一二年第五号(九・十月号)に掲載されたV・クジミンコフ/V・パブリャチェンコの共同論文「一九五六年ソ日共同宣言の真の意味」がその例だ。

 極東研究所は、日本、中国、韓国、北朝鮮、モンゴルに関する政治、経済、軍事問題を研究するシンクタンクである。この研究所は、クレムリン(大統領府)、首相府、外務省などから研究を委託され、また答申を政府機関に提出することができる、現実に影響を与える研究所だ。『極東の諸問題』誌(隔月刊)は、発行部数は五八四部に過ぎないが、専門家には影響を与える。さらにクレムリン、外務省などの委託研究にもとづく報告書から秘密に該当する部分を削除して、同誌に掲載することもよくある。

 本論文の著者であるクジミンコフ、パブリャチェンコは、いずれも日本の内政、外交、軍事を専門とする日本学者だ。本論文では、一九五五〜五六年の日ソ国交回復交渉の経緯を丹念に追って、ソ連が日本に平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しにいかに合意したかについてまとめている。日本側の文献としては、もっぱら松本俊一

『モスクワにかける虹』(朝日新聞社、一九六六年。二〇一二年に朝日新聞出版より

『日ソ国交回復秘録』と改題し、佐藤優による解説をつけて再刊)に依拠している。結論部で、日ソ共同宣言の二島引き渡し条項について、クジミンコフ、パブリャチェンコはこう述べる。

〈東アジア諸国における本質的な変化が、東アジアにおけるロシアの戦略形成におけるアプローチを全体的に再検討することを余儀なくさせ、特に「平和条約」締結に関する日本との交渉を最適化する。この最適化は、国際法を基礎にしてのみ完全な根拠を伴って実現できる。日本は、何度もソ日共同宣言第九項で規定されている義務の履行を拒否し、四島にまで要求を拡大した。一九六九年の条約法に関するウイーン条約(第四四条、第六二条)に鑑み、仮に義務の面での根本的な事情が変化するならば、条約は完全にもしくは部分的に履行されなくなる。日本が当初受け入れていた共同宣言(第九項)の条件を拒否したことは、当然、「根本的な事情の変化」である。

 それ故に、上述のことから、地域と世界の新たな地政学的状況のためにロシアは、国益と安全保障全般に合致していない過去の立場を、部分的に、そして一部においては完全に再検討することを余儀なくされるのである。〉

 要するに、日米同盟が深化し、米国のミサイル防衛システムに日本が組み込まれている状況で、しかも日本政府が一九五六年宣言で合意した歯舞群島、色丹島の日本への引き渡しに満足せず、領土要求を国後島、択捉島に拡大している以上、「根本的な事情の変化」が起きているので、もはや歯舞群島、色丹島を日本に引き渡す義務はロシアにないということを示唆している。北方領土交渉が動き出すことを念頭におき、「ゼロ島返還」でとりあえずハードルをあげようとするクレムリン、首相府、外務省の対日強硬派がこの論理を用いるであろう。

 もっとも、日ソ共同宣言第九項前段では、平和条約交渉の継続が明記され、また日ソ双方が公表に合意した松本・グロムイコ往復書簡でも、「領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続せられるもの」という了解が明記されているので、日本側が国後島、択捉島を要求していることをもって「根本的な事情の変化」を主張しても、説得力がない。

 いずれにせよ、外務省は首脳レベルでの信頼関係の構築につとめるとともにロシア側からのさまざまな変化球に対応できる理論武装もしなければならない。(文中一部敬称略)
(二〇一三年二月二十六日脱稿)
本連載は加筆・修正の上、
『新・帝国主義の時代 左巻:情勢分析篇』
『新・帝国主義の時代 右巻:日本の針路篇』

として3月25日に2冊同時刊行の予定です。

〔『中央公論』2013年4月号より〕

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