保坂三四郎 プリゴジンの反乱の余波はまだ続く

保坂三四郎(国際防衛安全保障センター(エストニア)研究員)

高級レストラン経営の裏で

 1980年3月の深夜、レニングラード(現サンクトペテルブルク)のレストラン近くで、18歳の青年プリゴジンは見ず知らずの女性を背後から襲って首を絞め、仲間とともに気絶した女性の靴やイヤリングを奪って逃走した。それより2年前の窃盗で執行猶予付きの有罪判決を受けていたプリゴジンは、その他にも7件の住居不法侵入や窃盗などの罪で翌年懲役計13年の判決を受けた。

 プリゴジンは早くに父を亡くし、クロスカントリースキー指導者の継父に育てられた。恩赦により1990年に釈放されたプリゴジンは継父とともにホットドッグ売りを始める。その後、スーパーマーケットのチェーンで成功し、サンクトペテルブルク市の「オールド・カスタムズ・ハウス」を始め次々と高級レストランを開業した。副市長だったプーチンも上司のサプチャク市長と一緒にこのレストランをたびたび訪れた。プーチンの大統領就任後は、ブッシュ米大統領、チャールズ英皇太子、シラク仏大統領、森首相など多くの海外要人が、プリゴジンのレストランで「おもてなし」を受けた。

 レストラン開業を手伝った英国人パートナーは、プリゴジンは次々と新しいアイディアを生み出し、細かいところにまで目配りする素晴らしい経営者だったと回顧する。清掃後には照明プロジェクターを使って、テーブル下に埃が残っていないかを自らチェックしたという。

 2013年頃にはプリゴジンの経営するコンコルド・グループは、ロシア国防省から軍へのケータリングや清掃業務を受注し、モスクワ市の学校給食の受注でもシェアは9割に達した。

 一方、この稀に見る成功の裏には、闇社会とのつながりがあった。1990年代、FSB(連邦保安庁)やタンボフ州出身のウラジーミル・クマリンが率いる通称「タンボフ・マフィア」と協力してサンクトペテルブルク市の経済犯罪を陰で牛耳り台頭したのが対外関係担当の副市長プーチンであった。一方、プリゴジンが経営するスーパーマーケットやレストランは、当初、サンクトペテルブルクの別のマフィア、通称ミーシャ・クタイスキーの庇護下にあった。

 2001年、レストラン経営で成功したプリゴジンは、ロマン・ツェポフという人物の仲介により、クタイスキーのグループから復讐を受けずに抜け出た。ツェポフも、滅多に表には出ないが、1990年代にプーチンに協力してサンクトペテルブルク市のカジノの集金システムを作り上げた人物である。ツェポフは、プリゴジンをプーチンやそのボディーガードだったヴィクトル・ゾロトフ(現国家親衛隊長官)につないだと言われている。

 なお、クタイスキーはまもなく殺人容疑で逮捕された。「90年代にプーチンを食わせてやったのは俺だ」と取り調べで話したことがプーチン本人の耳に届き、8年の懲役刑を受け、出所後はイスラエルに移住した。一方ツェポフは、2004年、FSBサンクトペテルブルク局長の応接室でお茶を飲んだ後、2週間後に急性放射線症で死亡した。元FSB職員アレクサンドル・リトヴィネンコが亡命先のロンドンで放射性物質ポロニウムで暗殺される2年前のことだった。ツェポフが、副市長時代のプーチンにボディーガードを提供していたことをうっかりメディアに話して、大統領とマフィアの関係を暴露してしまったことなどが暗殺の背景にあると言われている。

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