鶴岡路人 ウクライナへの「支援疲れ」で問われるもの

鶴岡路人(慶應義塾大学准教授)

「支援疲れ」とは何なのか、何でないのか

「支援疲れ」や「ウクライナ疲れ」といった言葉は、戦争のかなり早い段階から各国のメディアで使用されてきた。筆者自身、「『支援疲れ』しているのか」というメディアの質問に、これまで数限りなく答えてきた。「している」か「していない」という明快な回答が期待されていると分かりつつも、専門家としてその手に乗るわけにはいかない。この問題は多面的だからである。

 支援することに金銭その他の負担がともなう以上、疲れるのは当たり前である一方、疲れたからといって支援が縮小ないし停止することは必然ではない。特にこの後段は重要だ。「支援疲れ」という言葉には、支援の停止や減少、あるいはそうした状況に向かうようなイメージが無意識のうちに含まれることが多いが、疲れていることと実際におこなわれる支援は分けて考える必要がある。たとえば、ドイツでも「支援疲れ」が指摘されて久しいが、ショルツ政権はウクライナへの軍事支援額を2023年の約54億ユーロから、24年には80億ユーロに増加させる計画である。

 とはいえ、疲れること自体は人間の感情として自然である。ロシアによる全面侵攻開始から2年近くが経過するなかで、ウクライナも疲れていれば、米欧諸国や日本を含むウクライナを支援する側も疲れている。この点を隠して議論すべきではない。つまり、支援額が減少していない事実を示しても、「支援疲れ」が存在しないことの証明にはならない。「支援疲れ」がありながらも支援は続くということだ。

 それでは分かりにくいために、「疲れていない」と支援する側が強弁することもある。それはやせ我慢なのだろうが、それこそが重要な側面だともいえる。何か達成しなければならないものがあるから人間はやせ我慢をするのである。疲れたからといって何かを諦めるとは限らない。そこには意思が介在する。

 さらにいえば、支援は100かゼロかという二者択一でもない。ウクライナ支援への反対論、懐疑論も詳細にみていくと、支援をまったくすべきではないという「反ウクライナ」のような立場を除けば、「自国の負担の大きさを考慮して縮小すべきだ」や、「拡大する必要はない」という声も多いのである。そこにはグラデーションがある。

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