ドイツにおけるポピュリズムと大学
大学による煽動と大学への圧迫
ドイツの大学史は、教授たちがあるときはポピュリズムを煽動し、あるときはポピュリズムに突き上げられた歴史だった。
19世紀前半、ドイツの大学教員は自由主義の担い手として領邦君主と対決し、民衆の喝采を浴びることがあった。1837年、「ゲッティンゲンの七教授」は、国王の権利を制限する憲法を破棄したハノーファー王エルンスト・アウグストを批判して大学を追い出されたが、メディアの英雄となり、他大学に栄転するなどした。
20世紀前半には、ドイツの大学教員は愛国的学生に突き上げられた。のちに東京帝国大学法学部教授として近衛文麿の「新体制」運動に参画した矢部貞治(やべていじ)は、1936〜37年に留学先のミュンヒェン大学法学部で、NS体制(いわゆる「ナチ体制」)支持派の学生に迎合する大学教授を見て幻滅している。
20世紀半ば、西ドイツではマルクス主義に傾倒した大学教員たちが、学生の保守政権への叛乱を理論的に準備した。だが昂揚した学生運動は大学内の権威主義にも矛を向け、教授のガウン着用を批判し、講義を教授による権威主義的知識伝達だとして妨害し、学生による授業の運営を求めた。フランクフルト大学で教鞭をとったテオドル・アドルノやユルゲン・ハーバーマスは、左派言論人として学生運動を煽動したが、自らも大学教員として学生から恫喝されて狼狽した。
ドイツ史の自己批判が大事だと説いた戦後ドイツの教授たちが、民衆から自国批判の不足を非難されることもあった。ユダヤ人のハーヴァード大学歴史学助教授ダニエル・ゴールドハーゲンは、その著書『ヒトラーの自発的処刑人たち』(1996年、邦訳題『普通のドイツ人とホロコースト』)で、ホロコーストにはごく普通のドイツ人が自発的に荷担したのだ、ドイツ人には中世から反ユダヤ主義の素質があると主張し、ドイツで講演ツアーを行った。それまでドイツ史の自己批判に熱心だったドイツの歴史学教授たちも、さすがにゴールドハーゲンの決めつけには苦言を呈したが、会場のドイツ人一般聴衆は、彼の著書を読んでいなくても、ドイツ史批判を道徳的義務だとして、ゴールドハーゲンに喝采したのである。