私はなぜ大阪万博を「楽しめなかった」のか すべてが商品化され「攻略」を競う社会の限界
- 大阪万博における「自己責任論」
- 万博の理念と現実との乖離
大阪万博における「自己責任論」
先日閉幕した大阪・関西万博(以下、大阪万博)に行った際、帰りの電車でX(旧ツイッター)に以下の感想をポストしたところ、桁違いの「バズり」(拡散)が起こり、3500万回表示された。
大阪万博、ひどいひどいという前評判で、いざ行くと面白いという評判が出てきて、実際に行ったら面白いのかと思いきや、想像以上にひどくて、かなり不快な経験だった。これほどまでに混雑する日に行った自分の失策だというのは承知の上で、正直な感想を。(2025年8月30日15時01分)
続けて、以下のような趣旨の内容を投稿した。パビリオン入館は7日前、3日前、当日予約も全く取れず、予約なしで見られるパビリオンも数時間待ち。あまりにも暑く、子ども連れだと並ぶことも困難であり、比較的空いているパビリオンを探して見るだけになってしまった。「並ばない万博」なのに、入場するだけで1時間並び、その時点で熱中症になりかけた。気候変動で酷暑化が著しい夏に開催されているにもかかわらず、その「課題」の解決はできていないのではないか。他のお客さんたちの多くも似たような状態で、日よけとなる「大屋根リング」の下はぐったりして寝込んだり座り込んだりしている難民のような状態の入場者だらけだった。
このような、一部のお客さんたちだけが楽しめて、子どもや高齢者に優しくない万博は、誰のためのものなのだろうか。様々な社会課題が山積みの人類の未来に対して、多様なアイデアを持ち寄り、ビジョンを社会で共有する公共的な目的が万博にはあるのではないか、と。
私が投稿したこれらの意見に対し、極めて強い論調の批判が殺到した。準備不足、下調べ不足、スマホを使いこなせない老人だからそうなる、その日を選んで行ったお前が悪い、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンだってそうだ、反万博の工作員である、などなど。大半がこのような反応であった。
一応断っておくと、筆者は1995年からインターネットを使い、スマホのチケットレスにも日常的に対応している。事前にガイドブックも買い、並ばなくても入れるコモンズ館があるという情報も仕入れ、子どもが楽しめるというのでスタンプラリーも準備した。食事も持ち込み、凍らせたペットボトルも用意した。にもかかわらず、そのようなことを「していない」から楽しめなかったのだ、という勝手な決めつけがあまりにも多いことには、閉口した。なにかの事件の被害者に対し、被害に遭うのはその人に責任があると決めつける「被害者非難」のようなものだな、と思いながらその批判の言葉を眺めて、どうしてこうなるのだろうかと考えていた。
万博を楽しんでいるという人は、通期パスなどで何度も繰り返し行っている地元の人が多かった。何回も訪ねて「攻略法」を見つけ、長時間待つための椅子なども準備し、当日予約も公式ではない(不正かもしれない)ツールなどを駆使して、空きが出たら即座に確保しているらしい。
少ない予約枠をこうした人々と競い合わなければならない条件下で、家族連れや、遠くから見に来た客が楽しめるだろうか。口コミサイト「トリップアドバイザー」の日本語以外のコメントを見ると、☆1で辛辣な評価が並んでいるが、その内容は筆者が感じたことそのものだった。