高まる沖縄の独立熱

佐藤優の新・帝国主義の時代
佐藤優

バルト三国の分離独立運動を思い出させる沖縄の現在

 沖縄県と東京の中央政府との関係がかつてなく悪化している。直接のきっかけは十月十六日の未明に沖縄県で起きた米兵二人による集団強姦致傷事件だ。事件の悪質性だけでなく、日本政府の不誠実な対応が、沖縄を激昂させている。このまま事態を放置しておくと、沖縄が日本から分離するという国家統合の危機をもたらしかねない。しかし、このような危機意識をわが国の政治エリートも論壇人もほとんど持っていない。

 筆者には、現在生じている出来事に既視感がある。筆者は、一九八七年八月から九五年三月までの七年八ヵ月間、モスクワの日本大使館に勤務した。その間に一九九一年十二月のソ連崩壊があった。ソ連崩壊の引き金となったのは、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)の分離独立運動だ。一九八八年九月にエストニアでエストニア語が共和国における公用語とされた。同年十月には、エストニアとラトビアで人民戦線、リトアニアで「サユジス」(リトアニア語で「運動」の意味)が結成された。そして、同年十一月十六日にエストニア・ソビエト社会主義共和国最高会議が主権回復宣言を行った。この時点で、ソ連の政治エリートはもとより、バルト三国の民族運動活動家たちも、その三年後には、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立を回復し、そしてその年、一九九一年十二月にソ連が崩壊するなどとは夢にも思っていなかった。

 当時、ソ連の最高指導者であったゴルバチョフ(共産党書記長)は、回想録にこう記す。
〈一九八八年十月一日、エストニア人民戦線創設大会が開かれた。一週間後には、ラトヴィア人民戦線が結成された。この月にはリトアニアの「サユジス」設立大会も開かれた。最初の段階(一九八九年半ばまで、といってよい)では人民戦線は、多種多様な層の代表を含んだ超党派の統一組織にとどまっていた。人民戦線の中には、熱心な改革推進派もたくさん入っていた。こうした人びとは連邦からの分離はいっさい考えていなかった。しかし、共産党組織は人民戦線とは一線を画した立場に立ち、あらゆる民族主義的現象に警戒心、あるいは敵対心を示した。このため、人民戦線の運動は共産党に対抗する選択肢という性格を持ち始めた。国民が不安に感じていた最も切迫した諸問題が彼らの旗印となった。その結果、人民戦線は影響力の点でアッという間に党組織を凌ぐことになった。

 バルト諸国は、各自の共和国の民族語を公用言語とすること、一九一八年に制定された国家と国旗を復活すること、自共和国への他民族の移住を制限すること、真に独立した共和国とすること─を提起したのだ。付け加えれば、彼らはこうした問題を提起した際、共和国憲法とソヴィエト連邦の法律を遵守する形で論議していた。全体としていえば、こうした問題すべては第十九回党協議会(引用者註*五年に一度行われるソ連共産党大会の間に重要な問題が発生したときに全党協議会が行われる。第一九回党協議会は一九八八年六月に行われた)で決定された構想の枠内にとどまっていた。つまり、連邦からの離脱という要求はなかったのだ。〉(ミハイル・ゴルバチョフ[工藤精一郎/鈴木康雄共訳]『ゴルバチョフ回想録 上巻』新潮社、一九九六年、六五八頁)

 ソ連は、主権を有する共和国の自由な連邦(同盟)で、ソ連を構成する共和国には離脱権が認められていた。ソ連に加わりながら、「一九一八年に制定された国家と国旗を復活すること、自共和国への他民族の移住を制限すること、真に独立した共和国とすること」が、建前としては可能であった。ゴルバチョフは、共産党組織からだけでなく、KGB(国家保安委員会=秘密警察)の情報網を通じても、沿バルト三国の民族運動、反ソ活動の状況について、詳細な情報を入手していた。それにもかかわらず、人民戦線運動が、ソ連国家の崩壊をもたらす危険性をはらんでいることがわからなかった。

バルト三国の内在的論理を理解できなかったロシアエリート

 当時、筆者は大使館の政務班で民族問題を担当していた関係で、ソ連科学アカデミー民族学研究所(現ロシア科学アカデミー民族学・人類学研究所)を訪れ、民族問題専門家たちとバルト諸国情勢について定期的に意見交換をしていた。特に印象に残っているのがコーカサス部長のセルゲイ・アルチューノフ教授(一九三二年生まれ)の見解だった。アルチューノフ教授は、日本人の生活習慣の研究で博士号をとったので、日本語も堪能だ。アイヌ民族に関する専門書も刊行している。科学アカデミーの「歩く百科事典」と呼ばれ、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語、日本語、グルジア語で学術発表を行うことができる。ギリシア語、ラテン語などの古典語を含め四〇以上の言語を読むことができる。

 研究分野では古代人の食文化、インドの民族問題、北極圏の先住民族などで業績を残した後、最も難しいと言われているコーカサス研究を後半生のライフワークにしていた。同時に民族理論においてもソ連で指導的な地位を占め、ソ連共産党中央委員会に助言をしていた。
 アルチューノフ教授は、一九八八年秋の時点で、バルト三国がソ連から離脱する可能性があると警鐘を鳴らした。筆者はアルチューノフ教授とこんなやりとりをした。

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