辻田真佐憲×三浦瑠麗 国のかたちに関わる歴史問題に対して、普遍的な立場に立てるのか

令和の国体
辻田真佐憲(近現代史研究者)×三浦瑠麗(国際政治学者)

ふたつのナショナリズムと「国体」

辻田 まずは議論の導入として、「国体」とはなにかを確認しておきましょう。ふつう国体という言葉は、日本の国柄、とくに天皇を中心とした国のあり方を指します。これについて書かれた文章が戦前にふたつありました。『教育勅語』(1890年)と、『国体の本義』(1937年)です。

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス(『教育勅語』、強調は辻田)

 

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。(『国体の本義』、強調は辻田)

 

『国体の本義』は、日中戦争勃発と同じ年に文部省が出した本です。共産主義の流行に対抗すべく日本の国家観も体系化しておかなければいけないということで、国体を定義した。逆に言うと、じつはそのころまで国体の明確な定義はなかった。三浦さんにとって国体のイメージとはどういったものでしょうか。

 

三浦 われわれが国体という言葉に触れるときは、まず現代では使わないものとしてイメージしますよね。くわえて、戦時中の記憶がある世代の一部は別ですが、そうでない世代はまず否定から入る。なぜこの言葉を忌避するかというと、天皇の存在を政治的なものにしたり、統治のトップに置こうとしたりする勢力への警戒ゆえです。だからこそ逆に、最近は右派の一部でこの言葉をあえて使うことが流行っている。

 

でもそんなひとたちこそ現上皇の譲位に反対していましたね。あのとき、国体という言葉の流行は天皇個人への崇拝にはつながっていないと思いました。本人に譲位の意思があり、歴史的にも同様のケースはあったにもかかわらず、彼らは譲位を認めたがらなかった。彼らもまた、天皇という存在を空箱として利用しようとする人々にすぎないことがあらためてあきらかになりました。結局のところ、国体というのは便利な空っぽの概念です。われわれがなにをもって自分たちを日本人だと位置づけているのかといえば、じつは天皇とは関係ない。この日本列島に生まれたからだ、ということにすぎないのではないでしょうか。

 

辻田 なるほど、当然ですが天皇のいない共和制の国にもナショナリズムはあります。日本だって、天皇という特殊な血族に依存する厄介な仕組みは取り払ったほうが、むしろ健全なナショナリズムが育つという議論もあります。三浦さんの愛国心のなかで、天皇はどれくらいの大きさを占めているのでしょうか。

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