辻田真佐憲×三浦瑠麗 国のかたちに関わる歴史問題に対して、普遍的な立場に立てるのか

令和の国体
辻田真佐憲(近現代史研究者)×三浦瑠麗(国際政治学者)

リベラルなアイデアの提案が必要な時

三浦 ふたつの回路があると思います。わたしのナショナリズムは、まずはあくまで西洋近代的なものです。それは制度へのリスペクトであり、特定の座を占めている個人へのリスペクトではない。仮に総理大臣が部屋に入ってきたら、それがどんなボンクラであったとしても席を立って迎える。非常に人工的な考え方です。

 

他方で、情念的な意味では、日本家屋の佇まいから平安時代の貴族文化から、それこそ天皇家にいたるまでの、ありとあらゆる「日本的なもの」への愛着も感じています。そのなかで、天皇の比重はふつうのひとよりはすこし大きいかもしれない。ただ、それもあくまで伝統文化の重みを引き受けてくださるひとという存在へのリスペクトであって、個人として崇拝するものではありません。

 

辻田 ふたつの回路というお話はよくわかります。日本の近代史でいえば、脱亜入欧とアジア主義のふたつの国家観・価値観の話ですね。そのあいだでどうバランスをとるかは、ずっと議論になっている。両方に足をかけながら迷いつづけるのがいいんだ、という考え方もありうると思います。

 

三浦 西洋が合理主義だけだとは思っていません。自分が暮らす土地に対する愛は西洋にだってある。『風と共に去りぬ』(1936年)に、スカーレット・オハラがそれまで無能だと考えていた父の偉大さを自覚する瞬間があります。それは土の偉大さを理解する瞬間でもあり、そこでオハラは「この土地をなにをしてでも守る」という境地に達する。

 

日本の問題は、そういう土地への愛着が国家への愛に飛躍するときに、そのふたつの区別がきちんとついていないことです。国家としての日本には近代合理主義が足りなかった。それでいろいろなものをごちゃ混ぜにしてしまい、結果として天皇という文化に寄りかかりすぎてしまった。ウェットなことだけを言うのでなく、同時に制度的な合理主義を血肉にするべきです。

 

辻田 たしかに、いきなり個人から国家に情念が向くと超国家主義になって危ない。いまのネット右翼は隣人ともろくに会話せず、郷土の祭りに参加するわけでもない。いわゆる「地元が好き」みたいな感情は希薄です。それなのにネットにずっと張りついて天皇が云々と書いている。

 

三浦 コロナ禍でわたしが最初に考えたことは、学校が閉じてしまった地元の子どもたちの支援をどうするかということでした。でもいわゆるネット保守にそういう視点はない。そもそも、足元の生活で忙しければそんなにツイッターをしている暇だってない。わたしは思想の面はリベラルですが、自分の生活のリアリティは保守です。ただそこで満足してはいけないと思い、リベラルなアイデアを提案しているわけです。

 

辻田 三浦さんは、ある種のノブレス・オブリージュとしてリベラルな意見を発信されているわけですね。

 

三浦 わたしはオールドリベラルですから。

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