《追悼 益川敏英さん》【前編】若者が科学に夢を持てる国に

益川敏英/聞き手・竹内 薫(科学作家)

英語0点でも名大に合格する方法

竹内 ところで、先生はいつごろから科学に興味を持たれるようになったのですか。


益川 小学校時代の僕は、勉強はできないし、宿題なんて絶対やらないし(笑)、褒められるような生徒じゃなかった。
 きっかけは親父なんです。家具職人で、小さな工場を経営していましたが、本当は電気技師になりたくて、一時は大学の通信教育を受講していたそうです。
 そのころ自分が仕入れた知識を誰かにしゃべりたくて、銭湯への行き帰り、小学生の僕を相手に講義をした。「モーターはどうして回転するか」とか「日食が毎月起こらないのはなぜか」とか。息子を教育してやろうというんじゃなくて、自慢話。(笑)
 興味があったんでしょうね。ちゃんとした教育を受けていればそこそこの技師になっていたんじゃないかと思うんですが。


竹内 お父さんは戦後、砂糖を売る商売を始められたそうですね。家業を継がずに進学すると宣言して、お父さんとの間に激しいやりとりがあったということですが。


益川 一番ひどかったのは大学を受験するときね。いよいよ願書を出さなきゃいかんというときになっても、親父は「砂糖屋をやるのに学問は要らん」の一点張り。
 僕のお袋は、若いころサラリーマンの奥さんに憧れていたらしくて、仲裁に入ってくれました。ただ、実に傑作なんだけれども、彼女にとってのサラリーマンは農業試験場(農業の研究機関)の技師さんだった。漁師町で育ったものだから、サラリーマンといっても農業試験場の技師さんぐらいしか見たことがなかった。だから、しきりに「農学部を受けろ」と勧める(笑)。サラリーマン、すなわち農業試験場、すなわち農学部。実に単純です。


竹内 名古屋大学の理学部を受験するにあたっては、苦手の英語を捨てても合格できるように、綿密に作戦を練られたとか。


益川 当時、国立大学の入試は英国数社理の5教科で、各教科200点ずつ。得意の数学と理科は9割正解をめざしました。
 英語は0点でもしかたないと思ったし、実際、それに近かった。何点だったか、ちゃんとわかってます。(笑)


竹内 それは入学してから知ったのですか?


益川 当時は教務へ訊きに行くと教えてくれた。だから全部知ってます。社会は少々できすぎで、ほかの教科はだいたい計画どおりの点数でした。

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