小林武彦 利己的な生と公共的な死――社会が決める人間の寿命
死への恐怖と向き合う
生物学的に死の意味が理解できたとしても、人間は死をそのまま受け入れられるわけではない。
死への恐怖には二つある。一つはすべての生物が持っている生存本能によるものだ。熱さ、痛さ、寒さなどから逃れようとする逃避本能や、危険から生き残ろうとする闘争本能がなければ、そもそも生物は生きてこられなかった。死への恐怖もこの生存本能から来ていると考えられる。
もう一つ、人間特有の死への恐怖として、共感力から来る喪失感がある。自分が死んだら誰々が悲しむ、親は、子供はどうなるのかと考える。大切な人が死んだ時に自分が味わった悲しみを周りの人に経験させたくないと思う。こうした相手に対する思いやりによる死への恐怖である。
さらに、絆がなくなるという喪失感や孤独感もあるだろう。
人間は社会の中で進化した社会性のある生き物である。家族やコミュニティの中で協力してきた個体が生き残り、人間の社会を作ってきた。他人と関わるためには相手の立場や気持ちがわからなければならない。この共感力が人間の社会を作る上で重要な要素であった。
だから、所属するコミュニティや家族の誰かが亡くなることは最も大きなストレスになった。しかしそれは、人間が進化する上で必要な悲しみでもあった。それがなければそもそも家族は成立しなかっただろうし、現在のようなコミュニティは作れなかったかもしれないからだ。
私自身を振り返っても、身近な人の死は純粋に悲しいだけである。納得できないし、喪失感で心にぽっかり穴が空く。それを埋めるものは何もない。理屈では死の意味について語れても、その穴はいつまでも空いたままだ。
そうであっても、死は避けられないものとして受け入れるしかない。死は生物が生まれた時からあるものであり、みんなが死んでくれたから、今の私は存在している。だから、最後は私もご奉公として死んでいくのだ。
人間は生まれてくる時は利己的であり、赤ちゃんの時は何でも自分勝手に振る舞う。けれども成長するに従って少しずつ公共的になっていき、最後は自分の権利をすべて放棄し、完全に公共的に死ぬのである。
構成:戸矢晃一
1963年神奈川県生まれ。九州大学大学院医学系研究科博士課程修了。博士(理学)。基礎生物学研究所、米国ロシュ分子生物学研究所、米国国立衛生研究所、国立遺伝学研究所勤務を経て、現職。生物科学学会連合の代表も務める。著書に『寿命はなぜ決まっているのか』『DNAの98%は謎』『生物はなぜ死ぬのか』(新書大賞2022第2位)など。