鈴木涼美 悲しいのはお金で身体を明け渡す女か、幻想をお金で買う男か?(ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読む)
「悲しい」のはどちらなのか?
私が特徴的だと思うのは、幾度か彼が眠る愛人に対して「かわいそう」という表現を用いることです。最初の逢瀬の後に彼女のことを思い出した時も、「二度と思い出すことはないだろうと思っていたあの少女に対する恨みがましい気持ちからではなく、今更ながら同情したのだ」と表現していますし、眠る顔を見て「子守唄でもうたってやらないとかわいそうでとても起こせないほど安らかに眠っている」と言います。そして彼女が幸せになるよう、美しい女の子に育つように気を配るよう女将に注文し、実際に彼女の将来を色々案じます。
私は初めてこの日本語タイトルを見た時に、悲しきがどこにかかるのか、娼婦が悲しいのか思い出が悲しいのか、文字列の中で一瞬迷いました。原題は「Memoria de mis putas tristes」で、「mis putas tristes」は「私の悲しい娼婦」ですから、やはりここで悲しいとされているのは娼婦なのです。小説の中にも、売春の悲哀への表現は時折見えます。逢瀬に使う娼家の部屋に色々と買い込んで、彼女と自分の時間をより快適にするために整え、帰る時に片付けては「あの部屋は顧客が物悲しい愛の営みのためにたまたま使うことになる元の殺風景な部屋に戻った」と、人の売春については勝手に物悲しいと決めつけることもあります。
そして、買春ばかりして生きてきた上に、90歳になって初めて知った恋も売春の形をとっている割に、売春婦への根強い差別感情も垣間見えるのです。久しぶりに見た眠る愛人が垢抜けているのを見て「これじゃ売春婦じゃないか」と言ったり、女将と喧嘩して「どいつもこいつもみんな同じだ」「くそったれの売春婦め!」と怒鳴ったりします。かといって、結局売春婦を軽蔑して終わるのではなく、愛に屈服し、恋は冷めないのです。
さて、本当の悲哀はどちらの側にあるのでしょうか。「かわいそう」なのはどちらで、「悲しき」はどちらなのでしょうか。男である老人にとっては売春婦の方に、女の私にとっては買春男にあるような気がします。寝ている女を買い続け、彼女と暮らしているような幻想を本気で見ては、彼女の将来を案じている男はこちらから見れば悲しいほど滑稽で、その論理は、女の方からはまったく想像を絶しています。
かつて女子高生たちはなぜ性を売るのか、という女の売る論理がやたらと取り沙汰されたことがありますし、今も週刊誌をめくれば、パパ活女子たちの気持ちがインタビューなどで問われています。男の方からすれば、お金で身体を明け渡す女の論理は想像を絶しているのかもしれません。相互にある理解不可能性をまるっきり全て棚上げにする行為が金銭の授受なのだとしたら、売春の現場にはあらゆる悲哀が転がっていて、相互に物悲しさを感じるものであることもうなづけます。買う男の論理があるのだとして、それはそこにある物悲しさをいくばくかのオカネでひとまず全て売春婦の物悲しさのせいにしてしまえることのような気がします。


