変格探偵作家の読む本 倉野憲比古
谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスⅧ 犯罪小説集』
内田百閒『恋日記』
佐藤春夫『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』
①谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスⅧ 犯罪小説集』
文豪のちょっとレアな作品を文庫化してくれるので、中公文庫はありがたい。
ラインナップに偏愛本は色々とあるが、一冊目は谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスⅧ 犯罪小説集』を挙げたい。本格探偵小説ファンには、つとに知られた「途上」が収録されているが、私のお目当ては違う。「柳湯の事件」――これだ。この作品にも例のごとくサド・マゾヒズムの翳は現れるが、それだけにとどまらず、谷崎は「ヌラヌラ派」文学の誕生を高らかに宣言した(かどうかは定かではない)。
とにかく全篇、ヌラヌラ、もくもく、にょろにょろ、と奇怪な触覚の世界が繰り広げられる。乱歩が『盲獣』で提唱した「触覚芸術」は、「柳湯の事件」に触発されたのではないかと私は密かに考えている。変格探偵小説の嚆矢にして、ひとつの理想郷である。
②内田百閒『恋日記』
次は、内田百閒『恋日記』を。本篇である百閒から妻への恋文よりも、次女・伊藤美野氏による「父・内田百閒」という聞き書きが読みどころ。百閒が妻のもとを去り、愛人のおこいさんと同棲していたのはよく知られた事実であるが、別居に至る事情や、別居後の夫婦関係がどうであったかなど、百閒の小説や随筆を読んでも今ひとつわからない。多分に下世話な興味が働いているのかもしれないが、百閒ファンとしては知りたくなるのも人情だろう。
で、伊藤氏の聞き書きからは、百閒別居以後の生活の一端が垣間見える。歪な家族関係だが、不思議と均衡が保たれていたことがわかる。百閒の生活はすべての側面で、おこいさんを含めた家族のたゆまぬ献身で成り立っていたのだ。百閒は果報者だ。
③佐藤春夫『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』
最後は『佐藤春夫台湾小説集 女誡扇綺譚』。収録作はどれも、何か寂しい翳を纏っている。植民地時代の台湾という時代背景がそうなのか、台湾という風土が元々持っている寂しさなのか、あるいは異郷を漂泊する春夫の姿からくる寂しさなのかはわからないが、惻々と胸をうつ。
門弟三千人を誇った佐藤春夫の小説は、手軽に読める文庫版は今ではなかなか少なくなったと感じる。これもまた寂しいことだ。この『台湾小説集』から春夫の小説世界に入ってみるのもいいのではないだろうか。
倉野憲比古さん
佐藤春夫