「個人的な、あまりに個人的な」砂原浩太朗
小泉武夫『酒肴奇譚 語部醸児之酒肴譚』
下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ バロック精神史の一肖像』
辻邦生『背教者ユリアヌス』(全4巻)
いきなり楽屋落ちめいて恐縮だが、20代の7年間、中央公論社(現・新社)に勤務し、編集の仕事に就いていた。この拙文は古巣への初寄稿ということになる。せっかくの機会だから、個人的な思い出のある3冊を挙げさせていただく。
入社後はじめて作った本が、小泉武夫『酒肴奇譚 語部醸児之酒肴譚』である。私が手がけた単行本版はとうに品切れとなっているが、文庫の方は四半世紀を経て現役。
著者の小泉氏は醸造学の泰斗であり、メディアへの登場もしばしばだから、ご存じの向きも多いだろう。当時からバイタリティあふれる方だったが、いまなお第一線で活躍されている。この本では講談調を思わせる独特の語り口で、酒や肴についての蘊蓄、発酵の世界について楽しく伝えてくれる。発酵食品の重要さはその後、氏の活動などによって大きく広まったが、私はこの本を編集することではじめて知った。未知の世界を開いてくれたという意味でも忘れがたい1冊である。
旅行へ行く折には、その土地の歴史や風土について書かれた本を持参することにしている。会社員3年目で北欧へ赴いたときには、下村寅太郎『スウェーデン女王クリスチナ』を選んだ。クリスチナは17世紀の人で、三十年戦争で有名なグスタフ・アドルフの娘。哲学者デカルトとの交流でも知られる。本書はプロテスタントからカトリックへの改宗など困難な問題を扱いながらも文章は平易であり、出色の評伝だった。
現地を歩いていると、ちょうど彼女の伝記映画らしき作品が劇場にかかっている。もちろん北欧の言葉など分からぬが、本1冊読んでいるのだから何とかなるだろうと飛びこんだ。
ところが、いつまで経っても宮廷のシーンがないし、デカルトや曲者宰相らしき人物もあらわれない。どうも違うらしいと気づきつつ最後まで観たが、では何だったのかまでは分からなかった。
その答えは何年かあと、神田のアテネ・フランセで開催された北欧映画祭で知ることになる。ノーベル賞作家シグリッド・ウンセット原作の「Kristin Lavransdatter」という作品だった。監督はベルイマン映画の女優としても知られるリヴ・ウルマンで、地主の娘を主人公とした恋物語。タイトルにKristinとあった上、ヒロインが花の冠を被るシーンがキービジュアルだったので、女王に違いないと思いこんだのである。ただしクリスチナの綴りはChristinaだから、いずれにせよ早とちりのそしりは免れない。
30歳で会社を辞めたのは、作家を志してのことである。いまは日本を舞台にした歴史・時代小説を書いているが、この頃は古代ローマ史を描こうと思っていた。退職後、参考にと読んだのが辻邦生『背教者ユリアヌス』。紀元4世紀のローマ皇帝を主人公とした作品だが、あまりの面白さに呆然とした。さりげなくホメロス風の比喩がちりばめてあったりするのも心憎い。日本人作家がローマを描いた小説としては、トップクラスのクオリティだろう。
私自身はその後、日本史へ転向してデビューに至ったが、ローマに寄せる思いはなお健在である。いずれ何らかのかたちで作品に出来ればと願っている。
砂原浩太朗さん
小泉武夫