「滅びしものへの愛着」中村彰彦

司馬遼太郎『豊臣家の人々』
久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』
司馬遼太郎の私的最高傑作
私は終戦によって中国大陸から引き揚げてきた旧満洲国軍兵士のせがれだからか、小学校入学前から滅んだ動物や人類、組織などに惹かれる傾向があった。
幼時の古生物に対する偏愛は高校受験の頃までつづき、同級生たちが単語帳に英単語のスペルと意味を書いて暗記にこれ努めている時、私はおなじ単語帳によって恐竜の学名と和名を覚えようとしていた。
トリケラトプスは三騎竜、などと。
この好みは日本史に関心を持つようになってからもつづき、戦国宇喜多家、豊臣家、会津藩松平家、新選組などの興亡の歴史が興味深く思われてきた。
司馬遼太郎作『豊臣家の人々』中公文庫版を読んだのもそんな興味からだったが、小説とも評伝ともつかないこの語り口は面白かった。
しかも全九話のうち秀吉を主人公にしたものはなく、その養子豊臣秀次、おなじく小早川秀秋、宇喜多秀家、正妻北ノ政所、弟の豊臣秀長、妹の旭姫、徳川家からの養子結城秀康、朝廷からの養子八条宮、淀殿・秀頼母子の視点から豊臣政権の限界を哀惜しつつ語り切ったところに本編最大の美点がある。
私は個人的には、この作品を司馬さんの最高傑作だと考えている。
もう一人の女子留学の先駆者
会津藩の人々を描いた作品のうちでは、大山捨松のひ孫、久野明子作『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』の品の良い文章が、一読後四半世紀を経た今も印象に残っている。
よく知られているように、捨松は会津藩家老山川浩の妹として誕生。
津田梅子らと十年間のアメリカ留学後、陸軍卿大山巌と結ばれ、すらりとした姿形と英語、仏語を流暢に操ることから「鹿鳴館の花」とその美しさを称えられた。
作中の次の一節は、特に忘れ難い。
生前、私の祖母留子は、『ママちゃん(捨松)の夜会服姿は、それはそれはきれいだったよ』と語ってくれたことがある。(略)髪には星の形をしたダイヤの髪飾りを三つ差し、その星がきらきらと光って、留子は本当のお星様かと思ったそうだ。
このくだりはあまりに可愛らしいものだから、私は山川浩とその弟健次郎の人生を描く『山川家の兄弟』(現在、人物文庫)を書き進めていた時、右の一節を引用・紹介させていただいたものであった。
まもなく発行される新五千円札には津田塾大学の創設者津田梅子の肖像が使われることになっているが、梅子が同大学の前身の女子英学塾を開くにあたり、捨松はそのよき協力者でもあった。
梅子が世の話題になるのであれば、それと並行して大山捨松という女性がいたことを思い出す日本人も少しふえてほしいものだ。
中村彰彦さん



会津藩に生まれ十一歳で日本初の女子留学生として渡米、のち陸軍卿大山巖と結婚して〈鹿鳴館の華〉と謳われた曾祖母の素顔を追う。〈解説〉佐伯彰一