今夏の「はだしのゲン現象」を夏の終わりに振り返る

若手社員の いま気になるあの本

『細雪』の連載事情

中央公論新社は旧社の時代を含めて130年以上の歴史があり、その歴史を紐解けば今回の『はだしのゲン』にまつわる事情と似たようなことを何度も経験してきた。入社して以降に学んだ知識をひけらかさせて頂けるなら、一例を挙げると、谷崎潤一郎の『細雪』がそうだった。

『細雪』は第二次大戦の只中に書かれた。谷崎は同作を19431月に雑誌『中央公論』で連載し始めたが、まもなく軍部や情報局は四姉妹の日常を書き連ねるこの作品の「反時代性」を警戒することになる。そして同年3月に連載第二回が掲載されてすぐ、『細雪』は今後の掲載を中止するよう通告される。

谷崎は掲載されなかった連載第三回の原稿末尾に、「他日、これが完成発表に差支なき環境の来るべきことを遠き将来に冀ひつゝ、当分続稿を筐底に秘し置かんとす」と書く。軍部や当局に睨まれながら、『細雪』を書き続けるという決意が谷崎にはあったのだろう。事実、疎開により国内を転々とする中で、私家版『細雪 上巻』を作成し親類知友に配っている。続いて当局から私家版にもかかわらず再び続刊を禁止されながら、さらに私家版『細雪 中巻』を作る。それも、今度は当局からの事後検閲ではなく、1945313日の大阪大空襲により一部を残して焼失するのではあるが。

やがて戦争が終わり、谷崎が願った「完成発表に差支なき環境」がすぐに到来したかというとそうではなかった。『細雪』はなおもGHQによる事前検閲や甚大な紙不足をくぐり抜ける必要があった。しかし中央公論社は「現文壇の最高傑作として再読三読の鑑賞に値する」との判断を下し、下巻の連載が『中央公論』誌上で始められ、ついに単行本化までこぎ着けた。そのとき194812月。連載開始から丸6年が経っていた。谷崎は時局とのいたちごっこを続けながら、何度でも本をつくり、読者に読んでもらうことを諦めなかったことになる。

谷崎の『細雪』にかけた情熱を、中岡元の言葉遣いに模して言えば、「わしゃ何回でも本をつくってみんなにみせてやるわい」とでもなるだろうか。もちろんこれは僕の創作ではない。『はだしのゲン』からの引用だ。作中に登場する平山松吉という小説家が、黒い雨を大量に浴びた自らの被爆体験をつづった「夏のおわり」という小説を、どうにかして出版するために奔走する中岡元の言葉だ。

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