平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 新橋芸者、鈴木屋小竹の場合
彼〈あの〉殿様は男にしては何〈どう〉やら尻が大き過ぎるぜ
境停車場を下りれば、紅雲靉靆〈こううんあいたい〉として桜は今を盛りの色深く、衣香帽影〈いこうぼうえい〉、道は人にて織りたらん如く絡繹雑沓〈らくえきざっとう〉の中を、件の島津公爵、蒸熱〈むしあつ〉きまま帽子を手に持ちて、悠然歩を移したもうと、先刻〈さき〉の汽車連が見付けて、あれあれ島津の殿様が彼処〈あそこ〉にお在〈い〉でなさるる、我〈おれ〉は今同じ汽車に乗って来たが公爵様と肩を並べて腰を掛けたは生れてから今日が初発〈はじめて〉だと、問わぬ人にまで誇顔〈ほこりがお〉に吹聴すれば、夫〈それ〉から夫〈それ〉に伝わりて、今日は島津様がお花見にござらしゃった、余り悪戯事〈わるふざけ〉してお手打になるなと、口々に罵〈ののし〉ると、小竹片耳に聞流して懐手〈ふところで〉、鷹揚に傍目〈わきめ〉も触らず、群集の中を過行くと、職人体の一群恐れ入て眺め居けるが、中なる一人眉を顰めて、公爵か落語〈はなしか〉か知らねど彼〈あの〉殿様は男にしては何〈どう〉やら尻が大き過ぎるぜ。然〈そう〉して歩行〈あるく〉にも内胯は何〈どう〉やら怪しい獣物〈けだもの〉に違えねい。ナニ天下お許しの花見だ、殿様だって大名だって構うことは無い、酔払った振をして一番衝突〈ぶつ〉かって見ようじゃねいかと、血気の若者、面白半分に背後〈うしろ〉から喚〈おめ〉き叫んで公爵一行の中に駆入れば、不意の狼藉に武を以て勝るちょう薩摩育の島津公、逃場に困りてアレーと金切声に身を竦〈すく〉ませて縮み上がると、夫〈それ〉を見て取る職人共、ソレ女だ化物だと乗掛って、尻を叩くやら脇をくすぐるやら散々の悪戯に、小竹は更なり同行〈つれ〉の紳士も敗亡〈はいもう〉して一目散に逃げ出すを、群集後から大声上げてソリャ薩摩様の逃軍〈にげいくさ〉だソリャ公爵が転んだと囃し立つるに、一行、肝魂〈きもたましい〉を失うて、伹〈と〉ある茶屋へ逃げ込めば、恁〈かく〉とは知らぬ女中共、入〈いら〉ッしゃいの掛声景気よく一室へ案内して客の姿を見れば、先刻〈さっき〉人に聞きたる島津公爵なり。
お連〈つれ〉は通例の男振なれど、髷あるお方は水際立ちし好男子〈よいおとこ〉、成程殿様と云うものは芝居で見ても此通り今日の花見の一番筆と女中共の噂になって、隙見〈すきみ〉するあれば立って躁〈さわ〉ぐもあり、及ばぬ恋に法界悋気〈ほうかいりんき〉して給仕を争うも可笑しく、やがて酒も済みて立帰らんとする時、女中共口々に島津様のお立ち――ホイ此所も敵の中だ。