エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(三)

【連載第十七回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

昭和二十三年、当局との交渉を買って出た吉田健一

 翌昭和二十三年(一九四八)の抵抗には、明らかに小林が関与している。「創元」第二輯の編輯過程のことだからだ。まずは吉田満の「占領下の「大和」」から。

「やがて二年ほどして、事前検閲は事後検閲に変わった。形式的には一歩前進であるが、最後に発禁強行という手段が残されている以上、束縛の強さは変わらない。むしろ、つねに事後発禁の危険にさらされる結果、編集者が大事をとって、逃げ腰に輪をかける仕儀となった。/しかし、ともかく状況は一変した。未見の人、英文学者吉田健一氏が、ただ拙作に対する好意から、当局との交渉の役を買って出られた」

 吉田満は知らなかったかもしれないが、吉田健一は「新夕刊」で渉外部長という肩書を持ち、得意の英語でGHQとの折衝を行なっていた。吉田健一が自ら「世にも不思議な新聞社」に書いた通りだ。だから「戦艦大和の最期」の場合も、「新夕刊」時代を引き摺り、河上徹太郎、林房雄、そして小林秀雄の意向を汲んで動いたのではないか。吉田健一の動きについては、江藤淳がアメリカで公文書を発見する。昭和二十三年十月十八日という日付の、GHQの参謀第二部(G-2)の「民間検閲支隊」のメモランダムである。

「今朝総理大臣の息子である吉田健一氏がPPB[新聞映画放送課]第一地区事務所を訪れ、大和検閲処分の再考を求めた。吉田氏は作者は親しい友人であると述べ、最初に掲載禁止処分となったとき[昭和二十一年秋]、当時も首相であった父に対してG-2へのとりなしを頼んだと述べた。吉田茂はそのころ首相、外相及び終連[終戦連絡局]長官のポストを兼任していた。吉田健一氏によれば、父首相は終連次長白洲次郎氏を派遣してウィロビー少将に面会させ、作品の掲載禁止を解除させようと試みさせたという。吉田(健)氏は、ウィロビー少将がこの件を調査したのち、白洲氏に対して作品にはたしかに反対すべき理由がないが、下僚である検閲官の決定を覆したくないと答えたと述べた。さらに吉田(健)氏は、以後二年も経っているので、もう一度なんとかしてこの作品を公刊したいと思っているとも述べた。彼は検閲基準が時の経過とともに変化すると考えているのである。また吉田(健)氏は、上智大学のロゲンドルフ神父が「是非この作品を公けにしてほしい」といっていると述べた。この作品を雑誌に発表し、のちに小冊子の形で出版したいと思っている出版社を、彼は数多く知っていると語った。(略)吉田(健)氏に対しては、創元社(最初に作品を検閲に提出した出版社)は、現在他の出版社同様に事後検閲に移行しており、出版物に対する責任は出版名義人にあると申渡しておいた」(江藤淳「死者との絆」)

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