エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(三)
昭和二十四年、不完全ながら全貌を現わす
余談はさておき、昭和二十四年(一九四九)に移ろう。「戦艦大和」が不完全ながら全貌を現わし、戦記物ブームが世に出現するのがこの年である。吉田満の「占領下の「大和」」によれば、「創元」第二輯掲載が「事実上の拒否」に遭い、逆に「なんとかして世に出したいという空気」になった、という。「空気」はどの辺か、誰あたりかはぼかされているので、小林の関与の比重ははっきりしない。吉田満は書いている。
「玄人筋から見れば発禁の危険性はきわめて大きい、そういう代物をわざわざ出してくれる出版社はない。それでは、潰れてもかまわんというような雑誌を探してきて、それにまず載せてみる余地はないものであろうか」
昭和二十四年になると、敗戦直後の出版ブーム、出版バブルは終わり、雑誌の休刊、出版社の倒産が目立ってくる。該当しそうな雑誌は、いくらでも見つかりそうな時代状況だった。誰が主導したのか、どこでどうなったのか、吉田満は書いていないが、手を挙げる雑誌が出現した。
「幸い雑誌「サロン」が、一か八かやってみるという。しかし原形のまま出すのでは、検閲を潜れるはずがない。といって、全然違ったものに崩したのでは意味がない。/窮余の一策、全編、文体を変えて口語で書き下ろすという案が出た。更に全般に手を加えて表現をやわらげ、題名も取りかえる。しかもこういう三流雑誌なら、あるいは見逃される見込みもありはしまいか。もしそのまま無事にある期間を過ぎれば、今度は単行本に原形を文語体で組むという手がある。単行本が咎められたら、雑誌掲載のものとただ文体を異にするだけで、実質的には同一のものだから、一方が通り一方が却下されるのは辻褄が合わぬと逆襲すれば、当局は発禁断行の機を失するということになりはすまいか」
細川宗吉名義の「新潮」掲載の口語体「戦艦大和」について触れていないので、この説明は正確さを欠く。致し方ないとはいえ、せっかくの証言としては不充分である。GHQの権力を甘く見過ぎていて、そこも不審である。「サロン」六月号は五月上旬頃に無事に店頭に出た。「サロン」の発行元である銀座出版社は思い切って勝負に出たのだ。で、結果はどうなったか。