エイプリル・フール、「戦艦大和」の吉田満に会う(四)
【連載第十八回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)
昭和二十七年、「全文発禁解除」で刊行
『戦艦大和の最期』
――そして三年がたった。独立は回復した。昭和二十七年(一九五二)八月三十日に、創元社から『戦艦大和の最期』が刊行された。帯には「全文発禁解除」が大きく打たれている。「嘗て雑誌「創元」に掲載、発売寸前に占領軍の禁遏を受け、却って英語版リーダーズダイジェストに翻訳されて異常なセンセーションを巻き起した運命の書。」とあり、「発禁」が宣伝に大きく貢献している。「映画化企画中」ともあり、映画は翌年公開される。映画にするのにふさわしいエピソードは、加筆の段階でかなり加わっていて、「創元」のゲラ刷りに比べ、映画化しやすくなったといえる。
吉田満は、一銀行員として日銀でキャリアを積んでいく。文筆家にはならなかった。ジャーナリズムの要求に応えて、文章の発表が多くなっていくのは昭和四十年代に入ってからだろうか。江藤淳との対談「「大和」以後三十年」では、昭和四十年(一九六五)に日本の節目を見ている。
「私は生き残ったものとして戦後の生活を始めたわけですが、どうも戦後日本の出発に大きな欠落があるという思いを捨てることができなかったわけです。つまり戦争の中でわれわれがやったことの中で、われわれが引き継いでいかなきゃならない責任、あるいは経験があるにもかかわらず、全体が抜け落ちているという気持ちがあったんですよ。(略)幸いその欠落も、戦後の二十年ぐらいは、たまたまいろいろなことに恵まれまして、あまり日本人が自覚しないでも大過なくやってこられた。それがだいたい昭和四十年ぐらいからさまざまな問題が表面化し始めたと思うのです」