横道 誠 宗教2世問題とは何なのか

近年、注目を集める事情と背景
横道誠(京都府立大学文学部准教授)

宗教体験の実態

 私が子どものころに所属していた宗教団体は、キリスト教を母体にした新興宗教だった。母は高校生のときに父親(私にとっての祖父)を交通事故で亡くし、裕福な家庭の子という立場を失う。そして家計を支えるために奄美大島から大阪に出て働き、結婚した男性(私の父)と、価値観の相違をめぐって諍いを繰りかえした。父は母と私、妹、弟を見捨てて家に帰ってこなくなった。母は、心の隙間を埋めるために宗教を選んだ。

 教義を信じれば、死後に復活し、楽園で暮らせる。死者のうち善良な者は復活し、家族一同が揃って幸せに過ごせる。母は突如として別れることになった自分の父親にまた会いたい、自分の破綻した結婚生活を巻きもどしたいという思いから、宗教にのめりこんだ。

 その宗教は、子どもは親に従順であるようにと教え、子どもが親の意向に沿わないならば、肉体的暴力によって矯正するべきだと主張していた。その教えにより私の小学校時代は地獄絵図と化した。発達障害があるために、学校ではイジメの標的だったが、不登校の選択肢はなかった。母は、機嫌が悪いと子どもたちの些細な言動で激昂し、何時間も正座をさせて反省を促し、次いでガスホースによる殴打を加えた。そのあと母は私たちを抱きしめながら「愛しているからやっている」と言った。これはDV、つまり家庭内暴力の典型と言える。たとえば、夫が妻に、あるいは妻が夫に殴る蹴るの暴行を加えたあとで、相手を優しく抱きしめて「本当は愛している」とささやくようなものだ。

 その時期から私の精神は解離した。解離とは、悲惨な現実を前にして発生する防衛機制で、現実と空想が混じりあって、心が砕けるのを回避しようとする。私はいまも現実と空想の狭間で揺らめきながら生きている。

 母が信じた宗教は、原理主義だ。原理主義は、宗教の聖典が教える教義を、それが書かれた時代のさまざまな制約などを無視して、現代でも実践しようとする時代錯誤をともなう。

 その宗教は古代のイスラエル社会を規範としており、当然ながら現代の日本社会とはさまざまな断絶が生まれる。右に記した児童に対する暴力的矯正の推奨は、その一例だ。親たちは愛情を口にしながら暴力を振るうが、実際には現状に対する鬱憤ばらしが潜んでいる。

「宗教1世」たちは、救済を求めて宗教にすがったのに、信じたことで社会から隔てられ、かえって生きづらくなることが多い。その苦しさを子どもに対する暴力として噴出させるという仕組みがある。

 1990年代には、そうやってこの宗教の信者である親が、行きすぎた矯正によって子どもを殺してしまい、事件はマスメディアに報じられた。以来、この教団は身体的虐待を奨励しなくなり、現在では、かつてそれを公認していた事実をも隠蔽している。

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