人手不足が労働市場にもたらすポジティブな変化

(『中央公論』2025年4月号より抜粋)
「働き手は神様」の時代
楠木 今、日本では空前の人手不足が進行中です。これは少なくとも労働者側にとって非常にいいこと。たしかに雇用者側から見れば大変かもしれませんが、労働市場がタイトであれば規律が働く。長期的には経営の質を上げます。むしろこの数十年を振り返れば、日本にとってもっともポジティブな変化ではないでしょうか。
逆に言うと、以前は労働人口がもっと多く、しかも雇用の流動性が低かったので、労働市場からの規律がまったく働いていなかった。それは経営を甘えさせる。経営の質が非常に低く、まともな労働分配ができない低収益企業やブラック企業がそのまま放置されていました。
ところが労働市場が市場として機能するようになると、その手の質の悪い経営をしている企業の社員は早々に辞めてしまうし、誰も働きに来てくれません。キャッシュフローとは別に、人手不足倒産もあり得るわけです。この際、そういう企業はどんどん潰れたほうがいい。
古屋 日本の労働市場は今、大きな転換点を迎えています。その転換に先立ってこの10年間に起きたのは、女性や高齢者の労働参加率の上昇でした。今は女性や高齢者の参加が進み余剰労働力がなくなった状況です。企業としては、安い労働力を雇えなくなったために賃金を上げたり、設備投資を増やしたりせざるを得なくなったわけです。私はこれを「労働供給制約社会」と呼んでいます。
その結果、これまでは存在し得なかった働き手優位の状況が生まれました。今や「お客様は神様です」というより「働き手は神様です」という感じ。だから企業側としては、辞められないように労働環境を良くしなければいけない。そのため、若手にとってある種の「ゆるい職場」が生まれているわけです。
楠木 では労働者はどんな職場を求めるか。いわゆる「働きがい」ですが、その要素は二つしかないと考えています。一つは良い給料。例えば僕の知り合いはコールセンター運営企業を経営していて、いつも人手不足に悩んでいた。そこで、僕が「給料を2倍にして募集してみたら」と提案して実際にそうしたところ、捌き切れないほどの応募があったそうです。
つまり人手不足を嘆く前に、ちゃんと給料を出せばいいんです。そんなに出せないと言うなら、経営者として儲かる商売を作ってください。それができないなら他の人に経営を譲ってください。それも無理なら商売を畳んだほうがいい。企業である以上、当たり前の話です。
もう一つは良い仕事。何が良い仕事かは人によって違います。ゆるいほうがいいと言う人もいれば、もっとキツいほうが合っていると言う人もいる。経営者には一人ひとりきちんと向き合って、それぞれに良い仕事の場を提供することが求められます。
企業に規律をもたらす市場は三つあります。一つ目は商品やサービスの競争市場、二つ目は投資家に評価される資本市場、そして三つ目が労働者に選ばれる労働市場です。このうち競争市場は言わずもがなですが、資本市場の規律もここ10年でずいぶん機能するようになってきました。それは確実に企業の収益力にプラスの影響を与えています。ただ労働市場についてはこれまで、希少な従業員の獲得をめぐって競争しているという実感が経営者側に乏しかった。現在の人手不足によりこの部分が改善されれば、企業のパフォーマンスにとって追い風だと思いますね。
古屋 日本人の労働時間はここ10年で明確な減少傾向にあります。現役世代(15〜64歳)で月10時間程度減少しているという国の統計もあります。一方で、企業の利益は減っていないどころか増え続けている。いかに無駄な仕事が多かったか、生産性の低い仕事が多かったかということです。
楠木先生は「規律」と言われましたが、これまで規律を作ってきたのは政府でした。例えば労働市場においては、職場環境や雇用条件の向上を目指して、働き方改革関連法や若者雇用促進法などが整備されてきたわけです。こういう政府の役割は、今後ますます大きくなるでしょう。
一方、労働市場は自由な競争が大前提です。労働者に対する一律のルール設定で、今の多様な働き方にどこまで対応できるのか。例えば一連の労働法が守っているのは、ほとんど被雇用者(サラリーパーソン)だけです。フリーランス新法はできましたが、フリーランスや個人事業主の方と被雇用者の働き方には大きな差がありますよね。それぞれの力を最大限に発揮してもらうためには、今の労働法の議論だけでは足りないと考えています。