Uボート内に散った日本人技術者

――庄司元三海軍技術中佐の最期 早坂隆の鎮魂の旅
早坂隆

ドイツの降伏

 U234号が敵からの大規模な攻撃に遭遇したのは、フェロー諸島の北方を通過していた時のことである。その日、U234号は海面に浮上して航行していた。潜水艦は浮上している際にはディーゼルエンジンを使用して速度を上げることができる。当時、まだ二十五歳という若き指揮官である艦長のフェーラーは、この海域を海上航行により全速力で駆け抜けるよう指示を与えていた。しかし、あえなく敵機に発見され、U234号は急速潜航を余儀なくされた。艦橋のハッチが固く閉じられ、メインタンクへの注水が速やかに始まる。海中の奥深くまで潜っていく艦の頭上で爆雷が炸裂し、平衡を崩した船体は、上下左右に激しく揺れた。

 しかし、U234号は懸命に退避活動を続け、なんとか爆雷の届かない深度二〇〇メートル以上の深海にまで逃げ込み、虎口を脱した。

 以上のように、百時の危局を乗り越えながら、一ヵ月以上もの航行を継続していたU234号だったが、五月一日、とうとう運命の無線を受信する。それは「ヒットラー総統が死去」したことを告げる内容であった。ヒットラーは四月三十日に自死を遂げていた。

 五月七日、ドイツ国防軍が、ソ連を除く連合国側に無条件降伏する。

 その間、北大西洋を西南方向に向かって航行していたU234号は、情報の蒐集に躍起となっていた。艦内の混乱を避けるため、情報の共有は艦長を中心に一部の士官に限定されたが、乗組員たちは息苦しい空間の中で、ただならぬ気配を敏感に感知していた。

 翌八日、Uボート作戦の生みの親で、ヒットラー亡き後はドイツ国大統領となっていたカール・デーニッツの名において、正式な命令が艦に入電された。それは、「武装解除して連合軍の指示に従うように」という内容であった。

 フェーラー艦長から乗組員たちに、この事実が伝達された。これを受けて、艦内では様々な意見が噴出した。「急いで降伏する必要はない」「中立国で親独のアルゼンチンへ向かおう」。

 殊に議論となったのは、二人の日本人士官への対処であった。ドイツの降伏により、日独の同盟関係はすでに破綻している。当の二人は、

「このまま日本まで航行してほしい」

 と艦長に強く請願した。結んだ契約の履行を二人はあくまでも求めたのである。

 艦が投降すれば、格納庫に搬入した極秘の積荷「U235」も、連合国側の手に渡ってしまう。それだけは避けようと、二人は必死の形相で繰り返し艦長に懇請した。

 しかし、その懸命の願いも叶えられることはなかった。 目的地は一旦、アルゼンチンに決まったが、その後も議論が重ねられた結果、命令通り連合国側に投降する道が選ばれることとなった。

 二人は事実上、居室に監禁されることとなった。ドイツ人乗組員たちは、この二人の日本人に対して、これまでの航海の中で深い敬慕と尊敬の念さえ抱いていたが、さりとて、この極限にまで切迫した状況下において、ドイツ人たちの感情に若干の変化が芽生えたのも無理からぬことであった。それは、二人が艦内で何か不穏な挙動を起こすのではないかという不安と猜疑心であった。実際、友永は、

「日本に行かないのなら艦を破壊する」

 と艦長に迫っていた。潜水艦の専門家である友永なら、それは技術的にも充分に可能なことであった。

 フェーラー艦長にとっても、二人を監禁することは、周章狼狽する艦内の秩序と統制を確保するために必要な苦渋の決断だった。結局、U234号は針路を変え、大西洋を西進してアメリカへ向かうこととなった。

 居室での監禁生活は数日間に及んだが、やがて二人は艦側に対し「不穏な行動は絶対に起こさない」という誓約を結んだ。フェーラー艦長はこの約束に信認を与え、これをもって二人の監禁は解かれた。

 爾来、二人の表情は「日本行き」を強硬に迫った時と比べて、節度のある、平穏なものへと転じた。庄司はドイツ人たちに「座り相撲」のやり方を教えた。狭い空間の中でもできるため、これは好評を得た。柔道経験者の庄司は、やはり#頗#すこぶ#る強かったという。

 だが、そんな庄司は友永と共に、すでにある一つの牢固たる決意を胸に忍ばせている。

二人の死

 五月十四日、U234号は米海軍の駆逐艦「サットン」に発見される形で、連合軍の指揮下に入った。

 その頃、艦内では一つの騒動が起きていた。

 庄司と友永、二人の日本人士官が、自室で自決を試みたというのである。

 緑色のカーテンによって遮られた二人のベッドからは、不自然に大きな鼾が聞こえていた。同室のフォン・ザンドラルト陸軍大佐が不審に思ってカーテンを開けると、狭い寝床に二人の身体が並んで横たわっていた。二人は深い昏睡状態にあり、いくら身体を揺さぶっても反応がない。口元には白い泡がこぼれていた。大量のルミナールを服用した結果であった。

 すぐに軍医が駆けつけ、二人に治療を施した。だが、蘇生の望みはないと診断された。

 二人はその後に息を引き取った。なかなか死に切れない二人の姿を見かねて、軍医が安楽死のための注射を施したという説もある。

 採光のための窓一つない幽室で、二つの独楽(こま)がその回転を終え、静止した。

 臥(ふし)所(どころ)の傍らには艦長宛として、庄司と友永の連名から成るドイツ語の遺書が残されていた。そこには「自分たちの遺体を水葬にしてほしい」「自分たちの私物を乗組員で分けてほしい」「速やかに日本に知らせてほしい」といった文意が、恬淡と綴られていた。

 二人は、連合軍の捕虜となる道を拒んだ。その思想的決断に至るまでの誘因と根拠を、捕虜になることを禁じた「戦陣訓」にのみ求めることは、先人の生涯に対する不遜であろう。

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