Uボート内に散った日本人技術者

――庄司元三海軍技術中佐の最期 早坂隆の鎮魂の旅
早坂隆

艦内に運び込まれた謎のケース

 二枚の鏡の間で久遠に続く反射のように、憂色が往復するこの物語の鍵となるのは、「234」と「235」という連続した二つの自然数。更に正確に言えば、どちらの数字にも頭に「U」というアルファベットが、いみじくも冠される。

 つまり、「U234」と「U235」。

 昭和二十年三月二十四日、ドイツ北方に位置するキール軍港に碇泊していた一隻の潜水艦に、日本海軍の二人の技術中佐が身を潜めるようにして乗り込んだ。名を庄司元三(げんぞう)と友永英夫という。

 二人が乗艦したのは、ドイツ海軍の代名詞、俗に言う「Uボート」である。翌二十五日、正式名を「Uボート234号」といったその灰色の艦は、港を静かに出航した。畢生の大航海の目的地は、遠き極東の大日本帝国である。

 東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、海軍の技術士官となった庄司はこの時、四十二歳である。ジェットエンジンを使用した飛行機などの研究のため、彼は昭和十四年からイタリアに派遣されていた。昭和十八年九月にイタリアが降伏した後は、スウェーデンに拠点を移し、引き続き最先端の航空技術を学ぶことに研鑽していた。丸眼鏡をかけた庄司は、性格は頑固なところがあったが、人付き合いは良く、周囲から好かれる人柄だったという。一方の友永は、庄司より六つ年下の三十六歳で、こちらは潜水艦の専門家であった。

 そんな二人が東京の海軍省からの特命により、日本に呼び戻されることとなった。二人の最新の研究成果は、劣勢の色を濃くする日本にとって、残された数少ない光明であった。

 庄司と友永は、帰国の手段として「Uボートに便乗せよ」と命じられた。同盟国である日独の連絡路は、多くの地域で制空権、及び制海権を喪失する厳しい戦況の中で、極度に狭められていた。

 そんな中、潜水艦を利用しての互いの行き来は、両国間の重要な交通手段として、それまでにも何度か使用されていた。日独を結ぶ道は、深海にまで追い込まれていたとも言える。

 しかし、これは数多の困難を伴う決死の方法であった。連合国側の電波探信儀(レーダー)の発達により、Uボートは各海域で次々と沈められていた。

 加えて、「航海中にドイツが降伏するのではないか」という危惧もあった。ドイツの各都市は、連合国側からの激しい空襲に晒されていた。二人は不測の事態を想定して、睡眠薬であるルミナールを自決用として大量に用意していた。

 しかし、二人が隠し持っていたものは、実は別にもう一つあった。

 格納庫の内部に運び込まれたその重厚な金属ケースの中身については、積荷の責任者であった副艦長のエルネント・パフ海軍大尉でさえ、知らされていなかった。金属ケースの中身は、二人の日本人と、艦長のヨハン・ハインリッヒ・フェーラー海軍大尉のみが与り知るところであった。U234号という冷たい母胎は、「禁断の実」という秘事を孕みながら、風光の届かない世界を進んでいる。

 この「禁断の実」こそが「U235」である。つまり「U234」が「U235」を抱え込みながら、海中を邁進していることになる。

 しかし、この「U235」の秘密を認知していた組織が実はあった。イギリスの諜報機関である。彼らは緻密で巧妙なる情報収集によって、「U234」の出航どころか、その内部の「U235」の存在まで、ほぼ正確に調べ上げていた。イギリス側はその情報を、同盟国であるアメリカに伝えた。

 そのような動向について、芥子粒ほども知らないU234号は、日出ずる国を目指し、這うようにして活路を拓こうとしている。

庄司の経歴

 庄司元三は明治三十六年八月二十七日、山梨県東山梨郡諏訪村に、医者の息子として生を享けた。室伏尋常小学校、県立日川中学校を卒業した後、第六高等学校の理科甲に合格。同校では柔道部に入り、友人たちと共に青春の汗を流した。

 六高卒業後はしばらく甲府で工芸学校の教師をしていたが、「男と生まれた以上、何か国家に最も有用な事で自分に適するものを選んでやろう」と一念発起。東京帝国大学の工学部を受験し、受験者中、最高点を取って見事に合格を果たした。

 大学二年時に、海軍の技術学生の試験に挑戦。持ち前の非凡な能力で、彼はこの難関も突破した。

 昭和四年、海軍の技術中尉となり、翌年には航空機の設計を担当する海軍工廠の部員となった。

 昭和七年には、お見合いにて婚姻。妻となった和子は、東京府立第五高等女学校を卒業した才女である。庄司はそんな和子に見合いとは言え、「一目惚れ」したという。

 新婚生活は広島県呉市の官舎で始まった。結婚後も庄司は多忙で、夜遅くまで航空機の設計、とりわけ大型爆撃機の試作に没頭していた。そんな日々の中、和子は長男・元彦を出産し、庄司は父親となった。その後も庄司家は元信、元昌という二人の男の子に続けて恵まれた。三人の男子を授かった庄司は、家庭では子煩悩な父親であったという。

 しかし、前述の通り、昭和十四年に庄司はヨーロッパの航空技術を研究することを目的として、イタリアに派遣されることとなった。派遣は単身で、期間は三年間の予定であるという。それは、三男の元昌が生まれてまだ一ヵ月ほどしか経っていない頃であった。軍命とは言え、最愛の家族との別離は、庄司にとって胸が痞(つか)えるような一事であった。

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