新書大賞2021 大賞受賞・斎藤幸平先生 講演動画を公開中!

Uボート内に散った日本人技術者

――庄司元三海軍技術中佐の最期 早坂隆の鎮魂の旅
早坂隆

遺書

 昭和二十年六月、庄司の家族は、元三の故郷である山梨県に縁故疎開していた。

 六月中旬のその日、妻の和子は桑の皮むき作業に追われていた。山のように積み上げられた桑の皮を背負って帰宅した和子を待っていたのは、一通の封書であった。それは、庄司の同僚が寄せたものであった。和子は嫌な予感に駆られながら、文面を読んだ。そこには、次のような趣旨の言葉が書き連ねられていた。

「ドイツの潜水艦の中で自決をした日本の海軍士官が二人いたという。その内の一人が庄司さんである可能性が高い」

 庄司家の次男である元信は、この時、九歳。父がヨーロッパに旅立った時はまだ二歳半の稚児であったため、父親に関する直接の記憶は全くなかった。しかし、彼は父の死を知った日、自宅の押し入れに籠って泣いた。

 現在、七十四歳となっている元信氏は、時折、やや視線を落としながら、幽寂とした口吻で語る。

「顔も覚えていない父親でしたが、何故でしょうね、涙が出ましたね」
 戦後の昭和二十一年、庄司家に一通の遺書が届けられた。実は、庄司はU234号に搭乗する前、日本の家族宛に遺書を書いていたのであった。それを庄司から託されていた人物が、敗戦後に漸く帰国が叶い、そして庄司家に手紙を届けたのである。遺書と共に、ひとつまみの髪の毛と、万年筆が同封されていたという。

 その遺書は現在、広島県の呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」の展示室にある。

「元彦をなくしたお母さん、元信、元昌が、おとうさん早くお帰りなさいと呼ぶ声は始終耳にきけどもとうさんも又日本の航空技術を負って立つ身なり」

 手紙の文字は、ひそとして音を立てない。

 二人の息子への呼びかけとしては、以下のような不壊(ふえ)の文字が綴られている。

「母は父無き子を育つるのにお前たちの想像し得ざる苦しみを経たる者なることを肝に銘じおき、将来お前たちが独立する場合にも母を孤独に泣かしむるが如きこと夢あるべからず。母はお前たちにとりてはいつも遠久(ママ)に絶対なるぞ」

 昭和二十一年の夏には、庄司家に白木の箱が届けられたが、その中には「英霊」と書かれた一片の薄紙があるのみであった。

 戦後の庄司家の生活は困窮した。未亡人となった和子は洋裁を学び、残された子ども二人を女手一つで育てた。

「正直に告白すれば、ですよ」 

 元信氏はそう前置きした上でこう語る。

「若い頃は父親を恨みましたよ。つまり、遺された家族が、その後にどれだけの苦労を強いられるのかということについて、考えが足りていないじゃないか、と」

 父親の固い背中を知らずに育った元信氏が、言葉の端々に感情の遣る瀬ない浮沈を宿しながら、率直な胸中を吐露する。

「周囲の人たちから『お前の親父さんも死ぬことはなかったのに』などと言われたりすると、無性に悔しかったものです」

 取材後の雑談の中で「大学時代の第二外国語」の話柄となった際、元信氏は、

「ドイツ語をやりました」

 と照れくさげに口にした。「父親を恨んだ」と洩らした元信氏だが、やはり亡き父を心棒とした部分は間違いなくあったのだろうと、浅見ながら忖度したくなった。

     *

 庄司元三の死処となったU234号は、一九四七年十一月二十日、アメリカ海軍の潜水艦「グリーンフィッシュ」の魚雷テストの標的とされ、大西洋の藻屑と消えた。

 敗戦から暫くの光陰が流れたある日、庄司の遺品が日本の家族の手に戻った。コンタックスのカメラや指輪、ブローチ、懐中時計といったそれらの遺品は、庄司が潜水艦に乗り込む前に、知人の駐在武官に託したものであった。

 また、彼の命日には、ドイツ政府から駐日大使を通じて、バラの花束とチョコレートが毎年、家族のもとに届けられた。

 アメリカで捕虜となっていたU234号のドイツ人乗組員たちは、祖国へと戻った後、艦内での日々について語り、ある者はドイツ国内の雑誌に手記を寄稿するなどした。後に和子はドイツを旅行し、U234号に同乗していたケスラー元空軍大将とも対面を果たした。

 一九九二年五月三日付のドイツ紙『ノルトバイエルン・クリア』には、U234号についての記事が改めて掲載されている。二人の自決は

「ハラキリ」という表現と共に伝えられた。

 和子は平成十九年十月七日に九十四年間の生涯を閉じた。元信氏は母と同居し、最期の日まで寄り添った。

「父の遺書にあった『母はお前たちにとりてはいつも遠久に絶対なるぞ』という言葉ですね。あれが結局、頭から離れなかったんですよ」
 元信氏はそう言って、莞爾として一笑した。

     *

「234」は破壊の果てに「0」となった。一方、「235」の半減期は「約七億」年であるが、こちらも繊細なガラス細工の如き歴史という座標軸上においては、すでに「0」に帰している。

 けれども、庄司の本懐までもが無になったと算じてしまうことは、形而上学における枯渇と分裂であろう。

 小舟のような人間の生涯の舵取りに、頼るべき数式や定理など存在せず、言葉少なき生命の航跡そのものが、千尋なす海原において、一つの妙なる道標となるのみである。

 海面に曳かれたその白い泡沫の筋とは、舐めてみればげに塩辛いに違いなく、それは泪の流れた跡にも似ている。

(了)

〔『中央公論』2011年9月号より〕

1  2  3  4  5