末井昭 がんがきっかけで健康志向に
きっかけは、がん
――文筆を専業にされたのも、ここ10年ぐらいのことですよね。ご自身に合っていましたか。
だいたい自分のことを書いているんですよ。それが楽しいですね。
僕は少年時代に母親がダイナマイトで心中をしていて、そのことを何回も何回も書いています。それはね、他人に言えなかったことです。親しい人の1人か2人には言っていたけど、同情されてね。暗い感じになるからそれからは言わなかった。
それが、飲み屋でたまたまクマさん(篠原勝之さん)たちに話したら、「すげえ!」みたいな感じでウケたんです。ウケるっていうのは初めての体験だったんですよ。27、28の頃でしたか。マイナス要因しか浮かばなかったことが、人に喜んでもらえるみたいな、そういう転換があったんじゃないかなと思います。
それから書くことも好きになって、基本的には人に笑ってもらったりするのが好きなので、面白く書けたら楽しくて踊りたくなります。ただ、書けないとやっぱり辛いですよね。死にたくなる。(笑)
――死といえば、末井さんは58歳で大腸がんが見つかって手術なさっています。死生観は変わりました?
がんとはいえ初期だったので。ポリープのようながんが1ヵ所あったわけです。担当医から「まだ小さいから内視鏡で取ることもできますよ」という説明をされたのですが、一緒に聞いていたうちの奥さんが勝手に「切ってください!」と言うから手術することになったんです。
がん保険に入っていたので、慶應義塾大学病院の個室に入院できて、すごく楽しかった。看護師さんもみんな美人で、見習いの看護師さんが担当になってくれて、体温を測りに来た後、いつも30分ぐらい、いろいろ話をしてくれて。ここにずっといたいみたいな感じで。(笑)
そういう入院だったから死生観を変えるほどの体験ではなかったのですけど、最初にがんと言われたときにちょっと来ましたね。「え!?」っていう。それで、死生観は変わらずとも、健康志向になったというのはあります。
それまでと同じ不健康な生活を続けていると、死にますよと。そういう信号みたいな感じで受け取ったところはあって、あまり運動などしてこなかったし、タバコもバカバカ吸っていたんだけど、散歩を始めたし、禁煙したし、朝まで酒を飲むとかもしなくなりましたね。飲み仲間も気遣って、誘ってこなくなった。がんは水戸黄門の印籠みたいなところがある。「がんだよ!」みたいな。
1948年岡山県生まれ。工員、キャバレーの看板描き、イラストレーターなどを経て、セルフ出版(現・白夜書房)の設立に参加。『ウイークエンドスーパー』『写真時代』『パチンコ必勝ガイド』などの雑誌を創刊。2012年に白夜書房を退社後、執筆活動の傍ら、バンド「ペーソス」でテナー・サックスを担当する。『自殺』(講談社エッセイ賞)、『結婚』『生きる』など著書多数。
【聞き手】
◆オバタカズユキ〔おばたかずゆき〕
1964年東京都生まれ。上智大学卒業。一瞬の出版社勤務を経てフリーライターとなり、社会時評、取材レポート、聞き書きなどを執筆。著書に『何のために働くか』『早稲田と慶應の研究』など。