飯田泰之 円高待望論が招く危機

飯田泰之(明治大学教授)

インフレがもたらすデフレの恐怖

 日本の経済政策によって、現在の資源価格高騰に対応することはできない。できるのは、資源価格高騰の悪影響をいかに経済の悪化につなげないかの工夫である。

 現在価格が高騰しているガソリンや食料品は典型的な必需品であり、その多くは輸入品である。必需品は価格が高騰しても消費量を減らすことは難しい。すると、必需品への支出がかさむことでその他の商品――その多くは日本国内で生産される財・サービスへの需要が減少する。国内生産物への需要減少はその製品の価格低下を促す、つまりはデフレ圧力となるだろう。2月時点の生鮮食品・エネルギーを除いた消費者物価指数(コアコア指数)は前年同月比マイナス1・0%と、まだまだデフレ状態を抜けきっていない。

 また、すでに顕在化している企業物価の上昇も、国内経済へのデフレ圧力となる。国内向けの財・サービスを生産する企業も、その原材料として各種の資源を購入している。資源価格が高騰しても、国内需要が振るわない状況では大幅な値上げは困難である。そのため資源価格高は、企業の利益か人件費の圧縮によって吸収されることになる。前者は株価の低下等を通じて資産家層の消費意欲を削ぐだろう。そして人件費の圧縮が国内経済にデフレ圧力として働くことはいうまでもない。

 この問題の解決に為替レート、または為替レートを変化させるための金融政策を用いることは適切であろうか? 確かに、国内のエネルギー価格はドル建て価格に為替レートをかけたものなのだから、円高になれば円建てのエネルギー価格を抑えることができる。しかし、4月現在、19年比で原油価格は倍増しているのに対し、為替レートは1割程度円安化したに過ぎない。仮に強力な金融引き締めで為替レートを19年水準まで引き上げることができたとしても、国内の資源・エネルギー・食品価格を企業・消費者の実感が伴う水準まで引き下げることは不可能である。一方で、国内生産物への需要が停滞するなかで金融引き締めを行うことのダメージは計り知れない。

 現下の金融政策事情で強く懸念されるのが、インフレや体感インフレ率と有権者の投票行動の関係である。購入頻度の高い生活物資の価格上昇は多くの消費者に実感されやすいのに対し、耐久消費財や塾・習い事といったサービスの価格低下は実感されにくい。企業においても、明らかに自己責任ではないコストの上昇と異なり、売り上げの不振は自身のビジネスモデルのせいかもしれないと考える場合が多いだろう。生活物資や原材料価格の上昇は家計と企業双方に、「自分のせいではないのに社会が悪くなっている」という実感を抱かせやすい構造を持っている。

 必需品の価格上昇は誰にとっても好ましいことではない。その一方で、景気がいかに悪化しても全国民が失業の危機にさらされるわけではない点にも注意が必要だ。かつての経済理論では、政治家は選挙での勝利のために、インフレを軽視して失業率を重視する――その結果としてインフレ傾向が強まると仮定することが多かった。しかし、この想定は現代の先進国、なかでも日本には当てはまらない。選挙では全有権者は1票ずつの投票権しか有していない。その結果、与党は景気や失業しやすい状況にある労働者の問題には目をつむって、ほぼすべての有権者に嫌われる資源・食品・原材料価格の上昇をなんとしてでも抑え込みたいというインセンティブを持つ。

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飯田泰之(明治大学教授)
〔いいだやすゆき〕
1975年東京都生まれ。東京大学経済学部卒業後、同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専門はマクロ経済学、経済政策。内閣府規制改革推進会議委員などを務める。『マクロ経済学の核心』『経済学講義』『日本史に学ぶマネーの論理』など著書多数。
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