『言語の本質』の本質 ~今バズりちらかしている本を出版社若手社員が読んだらとっても楽しそうに脱線していった話~
『言語の本質』の本質の話、あとその周辺
本書では、オノマトペという、言語なのかジェスチャーなのかわからないことば(この件は本文中で解かれています)と、アブダクション推論という人間特有の学ぶ力から、AIではなく人間が操る言語の本質に迫ります。
オノマトペといえば誰しもになじみがあるかと思います。それこそ、まだ言語のおぼつかない子どもと最初にやりとりするときに活躍するのは、ジェスチャーとオノマトペではないでしょうか。
それがいつの間にか、本人の気づかないうちに、私たちが日常的に使う言語へと移り変わっていく。この過程において、身体と言語というふたつの間を埋めてくれるオノマトペの存在こそが、言語の本質を解き明かすための鍵となります。
かくいう私自身も、オノマトペはよく創ります。
たとえば夏の暑さで溶けてでろーんとなっているねこについて、「床でうにゃんうにゃんしてるねこ、ありがたい」、なんて言ったことがあります。
「うにゃんうにゃん」というオノマトペが、様子を表していたのか、形態(ねこは液体です!)を表していたのか、はたまた鳴き声を表していたのか、自分でもどうしてこの表現を使ったのかははっきりしません。しかし「うにゃんうにゃん」から、何らかの気分は感じていただけるのではないでしょうか。
その場にいた友人は「わかる~」と言っていたので、少なくとも同じ状況下にいる人間には伝わったようです。
そもそも「でろーんとしている」がスライムでも水飴でもトルコアイスでもなく、生き物がだらっとしている様子を表すことも、一度でもだらっとしたことのある人には感覚的にわかることだろうと思います。
「だらっと」。こちらは「だらける」が先か否か。「たら」は「弛む(たるむ)」に由来するそうですが、この言葉を発したときの、この身体から力が抜ける感じは一体何なのでしょう。だらっとしているときに使うからなのか、「だらっと」の音自体がそうさせるのか............
脱線してしまいました。
『言語の本質』の第4章、第6章では、子どもの言語習得を解き明かしながら、その本質を探っています。
子どもの言い間違いにニヤニヤしつつ、子どもならではの、発展途上の言語体系が垣間見えて、「はー、人間ってすごいなあ」「かつての私もすごかったんだろうな」とまるで他人事のような感想をこぼしてしまいました。
「ごみをポイする」、「ボールをポイする」。
そういえば、「レンジでチンする」を正確に理解したのはいつだったっけとふと思い返しました。少なくとも実家のレンジは「チン」とは鳴らなかったので、幼少期に「記号接地」(ことばと身体感覚をつなげること)はなされていないはずです。
かといって、テレビなどで実際に「チン」となるレンジを見て、「だからレンジってチンするって言うんだ!」となった記憶もありません。誰かに教えてもらったのでしょうか(もしかすると、いつも何かにツッコんでいる父が、「これチンしてくるわ~、うちのレンジはチンじゃないけど」なんて言ったのかもしれませんが)。
また脱線してしまいましたが、こうして子どもの言語の習得について細かな解説を読むと、自身が今操っていることばのひとつひとつが新鮮に思えてきます。
『言語の本質』の担当編集者いわく、二人の著者は力を合わせ、「山登り」あるいは「探求の旅」をイメージして書いたそうです。
本書を読むとき、言語を日々扱う私たちは、必ず何かしらの体験に置き換えて考えることができます。それはさながら、著者が拾い集めた情報を頼りに、ともに冒険するようです。
さらに自分だけが知り得る自身の経験を重ねることで、読者ひとりひとり違った脱線が可能かもしれません。
脱線から、あらたな探求の旅がはじまるのです!
今井 むつみ/秋田 喜美
日常生活の必需品であり、知性や芸術の源である言語。
なぜヒトはことばを持つのか? 子どもはいかにしてことばを覚えるのか? 巨大システムの言語の起源とは? ヒトとAIや動物の違いは?
言語の本質を問うことは、人間とは何かを考えることである。
鍵は、オノマトペと、アブダクション(仮説形成)推論という人間特有の学ぶ力だ。認知科学者と言語学者が力を合わせ、言語の誕生と進化の謎を紐解き、ヒトの根源に迫る。