八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(中)

【連載第二回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

吉野秀雄の短歌百四首と原稿料

 小林が「いい歌だぞォ、純粋で」と褒めた吉野秀雄の短歌については、吉野自身の日記(神奈川近代文学館所蔵)に記述がある。「吉野秀雄」の名は小林の読者にとってはお馴染みであろう。「真贋」(「中央公論」昭和26・1)で、小林が自宅に掛けて自慢していた良寛の書を贋作と知り、一文字助光の名刀で縦横十文字にバッサリ切り捨てる。「私はただ信頼している友人にニセ物だと言われた以上、持っている事が不可能であるとはっきり感じた」からだ。その「信頼する友人」が歌人で良寛研究家の吉野秀雄である。

 吉野の日記は『吉野秀雄全集』などでかなり翻刻されているが、この当時の部分はあいにく未翻刻なので、日記原本を所蔵する神奈川近代文学館に見に行った。日記は、これが難物で、読めない。戦争中も敗戦後も紙不足なので、小さな字でびっしりと走り書きされている。お手上げである。さいわい『歌びと 吉野秀雄 生誕一〇〇年記念展』の図録があるので、そこでの紹介を参考にしながら、日記を辿ることにした。

 小林からの原稿依頼があったのは九月八日で、翌日に吉野は一日がかりで歌稿を整理し、十日に小林に渡した。すると翌十一日に、電光石火で読んだ小林がやって来る。小林は気に入っており、「大いによろし」と褒めた。この十一日とは高見順の日記で、小林が「いい歌だぞォ、純粋で」と褒めた当日である。高見が書き記した小林の昂奮は、読みたてほやほやの昂奮だったのだ。

 吉野のほうも、「うれしうれし」だった。小林から依頼されると吉野は、歌がまとめて出せるのが、「何よりうれし。こゝろ時めく様な気持」「張合あり」「ああ、たのしたのし」と書き、九日の午後十一時までかかって百四首の原稿を作り、夜中の三時まで推敲をした。原稿を読んだ後に訪問した小林は、バッハやモオツァルトの話も吉野としている。少し先の記述になるが十一月十一日には「小林氏より「文学」へ寄せる予約料千三百何十円貰ふ」とある。「予約料」=原稿料はずいぶん弾んでいる。資金は潤沢だったか。

 中村光夫の『憂しと見し世』によると、当時(戦争中)の原稿料は、「一枚十円というのは最高の原稿料で、僕ら[筑摩書房]が貰うのは高くて五円、普通は二、三円」だった。敗戦後は物価が急上昇するにしても、かなりの額だ。井伏には「一枚二十円」を提示していた。短歌は小説や評論のような計算ではないだろうが、一首あたり十二円五十銭という計算だろうか。戦後の高額原稿料としては青山虎之助の新生社が、札束攻勢で悪名を残した。植田康夫の『雑誌は見ていた。』によると、「昭和二十年当時、一般には四百字詰め原稿用紙一枚三円が相場であったが、『新生』は評論に三十円、小説に五十円を払い、大家には百円を支払った」という。それにはとても及ばないが、業界の常識からすれば最大限に敬意を払った原稿料だったろう。

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