八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」②

平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「うんと高い純粋な文学雑誌」

 小林は高見順にも「創元」に書かないかと、声をかけている。テーマは「チェーホフ論」と決めている。小林が北原武夫に手紙を書いた三日後、八月三十日の高見順日記は忙しい。高見は日本文学報国会に行き、理事会で解散が正式決定される。情報局に行くと、原子爆弾の話で持ち切りである。先日、川端康成は「広島や長崎へ、作家が行ってその惨害を詳しくしらべて後々のために書いておく、こういうことは必要だとおもうんだが......」と提案していて、川端案にみんな賛成だ。発案者の川端は行く気があり、中山義秀は「決死的に行ってもいい」と言った。派遣の人選まで話は進みかけている。高見は鎌倉に戻り、製紙会社が鎌倉文庫と提携して出版社を始めたいという話を詰める。これが出版社「鎌倉文庫」となる。会の後、高見と小林と林房雄が残る。高見と林は仲が悪く、いつも通りに喧嘩となった。

「「おめえは林がわかってない」/と小林はいった。/林は先に帰った。小林秀雄は、うんと高い純粋な文学雑誌を出すつもりだとその話をはじめた。林房雄に勧められたのだ。

 チェーホフ論を書けという。文学論、人間論になって、いつか十二時が過ぎた。/亀ヶ谷切通は、一人では怖くて通れないというと、小林が送って来てくれた。雨で坂道がメチャメチャで、中途で転んだ。真暗だ。坂の下で別れた。小林はひとりで真暗な坂を帰って行った。私は感心して見送っていた」

「うんと高い純粋な文学雑誌」の「うんと高い」とは定価のことを指しているのだろう。「林房雄に勧められた」という情報はここだけだと思え、確実な裏付けはいまのところない。出版業とは総動員体制下からずっと、まず紙を如何に確保するかにかかっていた。刷れば何でも売れる、という時代で、刷りたくても紙がなくて刷れない時代がずっと続く。小林には紙のメドがついていたことは、九月十一日の日記に書かれている。

1  2  3  4  5  6  7  8  9