八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」②
島木健作全集の刊行
吉野秀雄の原稿については、後にまわし、この九月十一日の高見日記にもっと触れておきたい。川端と高見は最初、小林の家に向かうが、小林は留守で、夫人の話では、里見弴の家に行っているという。胃が悪いので、里見弴がほどこす「触手療法」を受けに行っている。
「私たちは島木君の家へ行った。小林家の筋向いだ。[創元社の]秋山[孝男]君はいなかった。(島木全集は創元社と河出書房とから申込があって、創元社の方にきまったらしい。)」
島木が亡くなってまだひと月も経たないうちに、全集刊行が創元社に決まった。小林秀雄の意向が強く働いたと思われる。創元社の秋山孝男は小林の明大文芸科時代の教え子で、小説家志望だったが、小林の推薦で創元社の編輯者となっていた。『島木健作全集』全十四巻は、昭和二十三年から創元社で出る。編纂者は小林、林、亀井勝一郎、中村光夫の四人で、題簽は小林が書く。島木の遺作短編集『出発まで』(新潮社)の題簽は川端が書いた。同じ日の高見日記では、島木夫人は不安そうに訴えている。
「「小説を二百枚ほど書いたというのですが、いくら探しても......」/と奥さん[島木夫人]がいった。(略)「まさか、棺の中に......」(略)「疎開の荷物の中に入ってるんでしょう」/と川端さんはいった」
この行方不明の原稿は無事に見つかり、「土地」と題され、「創元」第一輯に掲載の上、創元社から本になる。いずれも小林の決定であろう。この遺作を島木は生前、「私にとっての『夜明け前』の如きものかもしれない」と言っていた。「土地」を読むと、島木の新たな展開を予測させる出来だ。筑摩書房で島木を担当していた中村光夫は、「幅ひろい社会小説に仕上げるつもり」だと島木が言い、「氏の抱負はかなり実現しています」(中村『文学回想 憂しと見し世』)と後年、述べている。最晩年の島木が「机に向って正坐している氏の姿は文字通り凛然という趣きでした」とも中村は回想している。