八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」②
なかなか集まらない原稿
「御手紙唯今拝見 今日は十八日です 昔の飛脚にも及ばぬ程 あまり返事がないので半ばあきらめてゐた処 実に嬉しかつたです どうか間違ひなくお送り下さい 十二月上旬までお待ち出来ると思ひます 一大長編にしては如何 さし当り五千円ほど書いて下さいな 雑誌は一所懸命やる 大丈夫 中途で止める様な事はない 永井[龍男]も書いてくれる筈です 小生も勿論久しぶりでよいものを書かうと思つてゐます わが国の政治は当分駄目ですよ 従つて政治的文藝も駄目と見当をつけてゐる 美しい絵を入れて立派な雑誌にします
どうぞ身体を御大切に
〇〇〇[林房雄か]は酒不足でおとなしいのです
秀雄
鱒二兄 」
締切りを一ヶ月も先延ばしにしているものの、季刊雑誌の企画は相当進んでいる。「美しい絵を入れて立派な雑誌」にするともあるが、これは一年後に出来上がる「創元」の体裁に近い。「小生も勿論久しぶりでよいものを書かうと思つてゐます」というが、小林が自身の著作で「よいもの」と赦し、自負できていたのはどれだろうか、『ドストエフスキイの生活』だとするならば、小林自身が名乗りを上げて編輯を担当した「文學界」で十年前に連載を開始した作品だ。季刊誌「創元」は小林にとって、再び雑誌編輯に全力投球しようという意気込みの媒体だったのだろう。第三信は、それからさらに二ヶ月後。原稿がなかなか集まらないらしく、かなり弱気になっている。
「其後如何ですか 先日河上[徹太郎]より手紙もらつた処によれば、そちら[福山]は大変のんびりしてゐる様子 羨ましい事である 原稿の進行ぶり御一報下さらぬか、
小説依頼したものからそれぞれ承知の返事もらつたが どれもこれもほんとに書いてくれるのやら 何しろ遠方のものばかりでまことに心細い想ひをしてゐます。貴君の力作は是非創刊号に当てにしてゐるから、どうぞたのみます。
原稿の集り次第、いつ出すかわからぬと会ふ人ごとに〇〇[反論?]にしてゐるのだが、あまり気をもませないで下さいよ。河上の手紙によると小生の雑誌にも井伏は書く気でゐるらしい、とあつたので一筆啓上する次第 不悪[悪しからず]。 頓首
秀雄
鱒二兄 」
ジャーナリズムは雑誌の創刊ラッシュ、復刊ラッシュで、作家には依頼が殺到していた。高見順の日記を読むと、断るのに一苦労している。第三信には、小林の盟友・河上徹太郎の名前が出てくる。河上の故郷は山口県の岩国なので、原爆が投下された広島を挟んでいるが、井伏の福山とはわりに近い。「書く気」ありの井伏に対しては懇願調で、「編輯者」小林秀雄は「文士」小林秀雄の毅然たるポーズを振り捨てている。