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苅谷剛彦×橘木俊詔 英語支配と米国モデルに大学は抗えるか ――入試大混乱時代のエリート教育論(下)

苅谷剛彦(オックスフォード大学教授)×橘木俊詔(京都大学名誉教授)

英語ドミナント化に抵抗せよ

橘木 ただ、学問の世界ではドイツ人もフランス人も英語で論文を書いているというのが現状です。文学だけは母国語で書きますから翻訳文化の継承は大事だと思いますが、他の学問に関しては英語がドミナント(支配)化しているんじゃないですか、不幸にして。

苅谷 本当に「不幸にして」ですよね。

橘木 私はそう思います。とはいえ実際に、私も苅谷先生も英語で論文を書かないことには外国では名前が知られないわけです。ブルガリアとかハンガリーとか、南米の人も、英語ネイティブでなくてもみんな英語で書いていますからね。不幸にして、とは思いますけど、この状況をひっくり返すのは無理でしょう。

苅谷 いや、ひっくり返すのは無理なんだけれども、そのことにこだわり続け、抵抗することはできる。そのことの問題点を言い続けることが必要だと、僕は思っています。
『追いついた近代 消えた近代』という本を出したのですが、冒頭に近代という言葉への問いを投げかけました。近代は英語では「modern」ですけれども、日本語にする時には「近代」か「現代」か二つの可能性がある。英語で言う時はmodernで全部通用するのに、この違いは何なのかと。そこから戦後日本の近代理解の分析を始めたのです。
 そういった言葉に対する感覚は、僕が二つの言語共同体で仕事をしていることで敏感に感じられるものなのだと思います。実際に、イギリスに行って、日本語という根っこを持っているから気がついた問題がいろいろあります。そして、他言語による感覚を、英語で書くことができる。

橘木 フランス語にしてもドイツ語にしても、絶対に英語と違う発想をするはずですね。その違いを意識せずに、英語一辺倒になってしまうのは問題です。

苅谷 本当にそうです。アメリカに比べると、イギリスはまだ英語以外の言語ができる人が多くいます。僕の同世代だと、グラマースクールやパブリックススクールでラテン語を習った人もいたりする。大陸のヨーロッパ人には、もっと多言語を使える風土があります。それがアメリカに行くと、ほとんどアメリカ英語だけになってしまう。言語の多様性の喪失です。

橘木 私たち二人ともアメリカの大学でPh.Dを取りましたけど、お互いどこかでアメリカに対する抵抗がある、それを今日発見しました。

苅谷 アメリカ人の書いたものを読むと、どこかで自分たちのことをユニバーサルだと思っています。普遍的だと。実際には相当特殊な国ですよね。そういうアメリカが学問の中心になると、結局、イギリスでもフランスでも日本でも、大学教育もアメリカ化が進んでしまう。

橘木 次世代がみなそれで教育されたら、アメリカ主導の経済政策を押し付け、アメリカ型資本主義が世界に押し広げられるような結果となってしまいます。これは大問題ですよね。

苅谷 中国人の学者とモダンの概念について話した時に、すごく面白いことがありました。中国人は今の時代のことを「当代」と言う。「現代」は当代の前の時代、なのですでに過去になってしまっている。「近代」は現代のさらに前の時代ですから相当過去のこと。時代区分で言えば、近代は清朝末期のアヘン戦争以降五・四運動(一九一九年)までの時代で、そのあとの現代は五・四運動以後の時代、そして当代は日本語の現代、つまりコンテンポラリーになると言うんです。日本語の近代化は中国語では現代化と言う。このズレには近代理解の英日中の違いが表れている。
 こういう感覚、発想は、言語の違いに敏感になっていないと思いつかない。モダニティをモダニティーズと複数形で言えるのも、他言語の国がモダンをどう理解しているか、そこから生まれてくる発想です。それが、英語一辺倒になってしまうと、文化、社会は言うに及ばず経済、政治、ビジネスといった多くの分野で、ある物事や概念を理解する時に重要となる多様性を失うことになると思うんですね。グローバル化の中での日本の高等教育や受験システムのあり方も、そうした視点からも見る必要がある。日本自身の経験を大切にするということです。

橘木 今日の対談を通じて、苅谷さんが私と同様にアメリカで教育を受けながら、英語至上主義を含めて同国を諸手を挙げて賛美していないことがわかり、我が意を得たりという感想を持ちました。
 また、エリート主義の必要性を説いてきましたが、私たちは東大や京大で教えてきたので、エリート以外のことをあまり知らないという事実については自戒する必要がありそうですね。

構成:田中順子

 

〔『中央公論』2020年3月号より〕

大学はどこまで「公平」であるべきか

橘木俊詔

 教育機会の平等・均等路線の先で混迷を極める入試改革。著者はその状況に「繕われた公平さに意味などない」「世界で通用する大学やエリートを生み出せるのか」と警鐘を鳴らす。進学率が5割を超えて、最早エリートのためのものではなくなった大学はこの先どんな存在であるべきか? 未だ詰め込み型の「一発入試」に頼る大学に創造性ある学生を選ぶことはできるのか? 「公平」という呪縛から逃れなければ、大学に未来はない!

苅谷剛彦(オックスフォード大学教授)×橘木俊詔(京都大学名誉教授)
◆苅谷剛彦〔かりやたけひこ〕
1955年東京都生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了、米ノースウェスタン大学大学院博士課程修了。Ph.D.(社会学)。東京大学大学院教育学研究科教授を経て2008年より現職。『大衆教育社会のゆくえ』『オックスフォードからの警鐘』『追いついた近代 消えた近代』『コロナ後の教育へ――オックスフォードからの提唱』など著書多数。

◆橘木俊詔〔たちばなきとしあき〕
1943年兵庫県生まれ。大阪大学大学院修士課程修了、米ジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程修了。Ph.D.(経済学)。仏米英独での研究職・教育職を経て、京都大学教授、同志社大学教授、日本経済学会会長を歴任。現在、京都女子大学客員教授。『日本の経済格差』『"フランスかぶれ"ニッポン』『大学はどこまで「公平」であるべきか――一発試験依存の罪』など著書多数。
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