ザブングル・松尾の引退とM-1グランプリから見た芸人界の変化

西澤千央(フリーライター)

Mー1という巨大すぎる物差し

 オードリーが様々な芸人をゲストとして呼び、本音トークを引き出す「あちこちオードリー」(テレビ東京)という番組がある。四月二十八日のゲストはケンドーコバヤシ。彼は若手時代をこう振り返っていた。

「(芸人は)俺のちょっと上の世代まで、お笑いは『ワル』がやるもんやって(思っていた)」「他に行き場がない、食いつめたやつらが集まる」「それを見させられたから、必要以上に尖っていたというのが正直あったかもしれない。一番悪いサイクルにお笑い的にも入っていた」

 NSC(吉本総合芸能学院)大阪校一一期生、同期には中川家や陣内智則、ハリウッドザコシショウがいる。一九九〇年代の大阪にはまだお笑いと一般社会の境界線が存在したことをうかがわせる回顧だ。

 一方、下積み時代ライブシーンで孤立していたというオードリーは「面白い人ってやっぱしっかりしてた、考え方とか。全部のセンスがあるから、人間関係とか」としみじみ語る。結局いま売れている人、面白い人とは、元々ちゃんとした人でもあると。

 お笑いがダウンタウンやとんねるずに代表される「尖り」の九〇年代を経て、二〇〇一年、M─1がスタートする。初代王者の中川家を皮切りに、途中ブランクがあったものの、二〇二〇年に至るまで常にお笑い界の中心となる漫才師を送り出してきた。いま二十代の若手芸人に話を聞くと、そのほとんどが「M─1を見て芸人を目指した」という。少し前までならそれはダウンタウンであり、とんねるずだっただろう。M─1という一つの賞レースが、芸人の人生を左右するものとして存在するようになったのである。

 よほどの理由がない限り、売れている芸人の引退は考えにくい。そしてM─1はその売れ方を大きく規定するものとなってしまった。芸人のみならず、多くの芸能人たちは「どうやったら売れるのか」と常に悩んでいる。

「芸能人はK─1ファイターじゃないんで、勝ち負けはっきりした世界で確実に相手ぶちのめして勝ち上がるというものでもない。俺らもそうですけど、なんとなく、なんとなく、で、たぶん呼ばれてる」(『芸人雑誌』vol.2)

 これは現在、ポストかまいたちと目される若手コンビ、ニューヨークの屋敷裕政がインタビューで語っていたものだ。手応えがあっても、その後全く声がかからなかったり、何もできなかったなと思っても番組にまた呼ばれたりする。テレビという非常に不安定な、結果が不明瞭な世界でM─1の称号は確実に目に見える成功の手段と言えるのだろう。

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