ゲンロン社長 上田洋子 インタビュー(前編) 「すこし贅沢に作りましょうという気持ちになったことで、すごくいい本にすることができた」

コロナ禍で生み出された『ゲンロン12』と編集者・上田洋子の原点

ゲンロン入社まで

――やはり「ゲンロン」に上田さんが与えた影響は大きいと思いますね。ここからは、ゲンロン入社までの経緯を聞かせてください。元々は大学院に在籍されていたんですよね。

 大学ではロシア語を学んでいたので、将来は通訳者や翻訳者になりたいと思っていました。私が大学生だった1990年代は、ロシア語を活かした就職先となると商社くらいしかなく、数も限られていたんです。そもそもロシア語をきちんと使えるようになりたかったですし、文学の勉強もしたかったので、早稲田大学の大学院に入りました。学部時代には文学の授業はほとんどなくて、ふわっとした憧れで、予備知識もほとんどゼロの状態で文学の大学院に来てしまった。ロシア語は当時もおそらくそれなりにできたけれど、文学理論の常識のレベルは周囲の院生とは違っていたと思います。

 とにかくロシア語で生きていきたかったので、院生時代には、ありとあらゆるロシア語関連のアルバイトをしました。旅行会社で働いていたこともありますし、NHKのラジオ国際放送やテレビ語学講座のアシスタントなどもしていました。通訳や翻訳の仕事もしていたのですが、さまざまな現場を体験し、人と人の間のコミュニケーションを媒介するのはとても楽しかった。スポーツの通訳では、その競技のルールをイチから勉強したこともあります。この時に鍛えられた現場での「対応力」は、ひとりの人間が何でもやるゲンロンのような小さな会社では活かせていると思います。

 ですから、大学院生といっても、ずっと机に向かって研究に専念するようなタイプではありませんでした。こんなことを言うと元の研究仲間は嫌がるかもしれませんが、私にとって大学院は窮屈な場所でもあったんです。

――上田さんとゲンロンの関わりは、ゲンロン刊行の書籍『チェルノブイリダークツーリズムガイド』でのロシア関係のリサーチャースタッフからですね。

 じつはこの本は、私が関わるようになってからもゲンロン側の担当者が何人か代わっていたんです。現地への取材直前にも担当者がいなくなったので「大丈夫かな」と思ったりもしていました。この取材を通して東さんとは友人になり、考え方に感銘を受けたこともあって、この人とまた一緒に仕事をしたいと思うようにもなりました。この時期、私は大学院を出た後に務めていた助手の任期が終わり、広い意味で大学での就職活動をしていて、時間もあったんです。それで、ちょっと手伝いましょうかという感じでゲンロンに来ました。もともと通訳や翻訳はプロジェクトごとに仕事を請け負う形が多いので、そうした仕事を引き受けるようなカジュアルなノリで考えていました。

――助手時代は早稲田大学の演劇博物館に勤務されていたということですが、こちらのお仕事はいかがでしたか。

 これまでいくつかの組織に所属していますが、演劇博物館はかなり居心地の良いところでしたね。私は西洋演劇の担当でしたが、東洋演劇や日本の現代演劇のほか、歌舞伎や能を研究する近世の担当者や映像の担当者もそれぞれにおり、演劇や映像という大枠の中で多分野の研究者が集っていました。そこではジャンルをまたいだ越境的な研究会を行うこともしばしばで、それまで専門のロシアだけを見ていたのが、まったく知らなかったジャンルの演劇や、異なるテーマ同士がつながる接点を見つけて、視野の広い研究ができました。そうした雑多な空間からは大きな刺激を受けました。

 演劇博物館では、資料を整理して活かしてゆく学芸員の仕事も行っていました。寄贈されてきた段ボールの中に、百年以上前の超貴重な資料がふいに紛れ込んでいたり、ある時は世界演劇史上とても大きな存在であるロシアの演出家メイエルホリドの直筆のサインがあったりして、感動しました。同じ箱に研究者の私的な手紙が入っていたり、人が生きていた証みたいなものがボロボロと見つかる。そうしたモノの歴史と、生き生きとしたもの、その場で立ち上がって生成していく表現である演劇を結びつけていくような仕事はダイナミックで、非常に面白く感じていました。

JAN_0139-min.jpg

――雑多な空間に人やモノが集う演劇博物館の仕事と、ゲンロンの仕事は繋がりがあるように思えますね。

 そうですね。ゲンロンは出版社として紙の本を作る一方、ゲンロンカフェは、広い形での知を楽しむ行為が、人間を介して行われる場所でもある。それがとても魅力的でした。何より人が仕事の対象であるというか、生きている人を活かし、観客とつなげる仕事は演劇に通ずるものがあると思います。
(後編「解散の選択肢は『絶対にありえない』とずっと言っていました」に続く)

1  2  3  4