恩師と教え子が語る、原一男監督の教え。「カメラは必ず正面から撮れ」とは真逆の行動をした理由

満若勇咲監督×小林佐智子さん 『「私のはなし 部落のはなし」の話』刊行記念トークセッション
取材文・撮影=朝山実

方法論が見つからないと、どう撮っていいのかわからない

DSC00555�����~2.JPGシネマ・チュプキ・タバタにて。撮影=朝山実

満若 「構成」は小林さんだけでなく、原さんもやっていたんですか?

小林 うーん。そこはふたりで話して、わたしが決めていったんですが。

満若 まず大筋の構成を原さんが出すという感じですか?

小林 そうですね。

満若 原さんというと「まっしぐら」というイメージがありますが、小林さんの言うことを原さんが聞きいれるということはあるんですか?

小林 あります、あります(笑)。原さんはどちらかというと方法論のひとで、どう撮るのか?  方法論が見つからないとインできないんですよね。関係性ではなくて。

満若 方法論が見つからないと、どう撮っていいのかわからないというのは、ぼく自身もそうだったのでよくわかります。

小林 あとドキュメンタリーの場合、原さんが現場にいないということもあって、そういうときにはわたしが現場の責任を取ったりするんですよね。

満若 そういうときには現場の演出も、小林さんがされているんですね。この本を読んで、原さんはほんとうに小林さんに愛されているなあと思いました。原さんは、小林さんにもっとやさしくしたほうがいいなあとも。

小林 アハハハハ。

司会 ありがとうございます。では、そろそろ時間なので、ここでしめさせていただきます。

【取材後記:満若監督が小林さんと会うのは、大学を卒業して以来になるという。この日、劇場で観直してから対談にのぞみたいという小林さんの希望で、事前の打ち合わせもなくぶっつけで始まった。

原さんの授業について、対談時間が限られているためいくぶん端折られた印象があるが、『「私のはなし 部落のはなし」の話』の中では「被写体の欲望をあぶりだし、作り手ががっぷりと四つに組む」原さんの方法論、満若さんも参加した『ニッポン国vs泉南石綿村』の制作現場の様子が詳しく書かれている。

とともに、在学中の牛丼店のアルバイトをきっかけに「牛から肉になる過程を知りたい」「生産を担っている人を差別するのは、そもそも間違いではないのか?」という思いから『にくのひと』を企画したこと。特徴的なのは、最初から「無理だ」と考えずに粘り強く撮影させてもらえる場所を探し歩き協力者を得たことに「原イズム」がうかがえる。

授業や現場で過ごした時間も多いからだろう、この日、小林さんは息子というか孫に再会したように表情をほころばせ、いっぽうの満若監督は小林さんの著書を宣伝しようと本を掲げてみせる。劇場の外でのサイン会終了後もふたりの話は尽きなかった】

「私のはなし 部落のはなし」の話

満若勇咲

日本にいまだ残る「部落差別」を丸ごと見つめ、かつてないドキュメンタリー映画として多くの観客を集めた『私のはなし 部落のはなし』監督による初エッセイ。大阪芸術大学での原一男監督の講義から学んだこと、若松孝二監督の撮影現場での体験、屠場(とじょう)とそこで働く人々を写した『にくのひと』(2007年)が各地で上映され好評を博すも、劇場公開を断念せざるをえなかった経験、そこから十数年を経て、今作公開に至るまでの歩みを綴る。
プロデューサーの大島新氏、配給会社「東風」の木下繁貴氏との鼎談、角岡伸彦氏の解説を付す。

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取材文・撮影=朝山実
【対談者プロフィール】
●満若勇咲(みつわか・ゆうさく)
監督。1986年京都府生まれ。大阪芸術大学で、映画監督の原一男が指導する記録映像コースでドキュメンタリー制作を学ぶ。在学中に食肉センターで働く人たちを映した『にくのひと』を制作、劇場公開が決まるも封印。著書に映画の制作背景を綴った『「私のはなし 部落のはなし」の話』(中央公論新社)。『ドキュメンタリー批評雑誌『f/22』の編集長を務める。

●小林佐智子(こばやし・さちこ)
プロデューサー。1946年新潟県生まれ。新潟大学人文学部仏文科卒。上京後、日本シナリオ作家協会シナリオ研究所に通い、浦山桐郎ゼミ研究生。1972年、原一男と疾走プロダクションを設立。『さよならCP』『極私的エロス・恋歌1974』『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』『ニッポン国VS泉南石綿村』『水俣曼荼羅』などを製作。劇映画『またの日の知華』の脚本・製作。
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