大震災で弱体化した日本に中露韓は容赦なく牙をむく

佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

日本は大震災で弱体化しロシア、中国、韓国は動き出す

 日本人が交渉術を苦手とするのは、現実は変化するという認識が稀薄だからだ。交渉術の前提となる知的基礎体力をつけるためには哲学の知識が役に立つ。読者から「時間がないので交渉術に役立つ哲学書を一冊だけあげてほしい」と言われたならば、筆者は京都学派の哲学者・田邊元(一八八五〜一九六二)の『哲学入門』を勧める。田邊は変化についてこう述べる。

〈自分は自分、相手は相手、境界は初めから決つてゐる。一方が他方へ越境してゆくといふことは死んだものの場合には起らないはずである。しかるに既に境界といふことが問題になるといふことは実は両方の間に対抗運動があることを示してゐる。もちろん両方の間に一時的に平衡が成立つて、境界を両方から認めて、相互に越境しないやうな両立する状態が成立つといふことはある。しかし常に動いてゆかうといふのがそれぞれの本性なのであつて、動かないとか、平衡とか静止とかいふことは、対抗とか或は運動とかいふものの地盤の上で、或はそれを背景とする前面において成立つ一時的表面的な現象にすぎないといはなければならない。さういふことがあるから境界の問題がやかましい問題になるのです。物の場合には境界の問題は起らない。しかるに国の場合、人間の場合、社会の場合には境界が常にやかましい問題になる。明確に線が引けるならば、それを越境するなどといふことはあるまじきことなのです。それが常に越境しあひ射ちあひをやる。そこに平衡とか静止とかがあつても、それは運動といふものの地盤の上で一時的に成立つ表面の現象、或はさういふものの背景の前面に成立つ現象であるといふにすぎない。〉(田邊元『哲学入門』筑摩書房、一九六八年、三〇一〜三〇二頁)

 人間は生き物であるから、人間と人間の境界線は力関係によって変化するのである。人間共同体である企業、宗教団体、国家も有機体(生き物)と擬制されるので、常に境界が変化するのである。東日本大震災後の現実において、日本の国力が弱体化していることを冷静に認識する必要がある。その状況で、ロシア、中国、韓国は、それぞれ国家としての生存本能に従って、越境を開始しているのだ。
 五月十五日、ロシアのイワノフ副首相、ナビウリナ経済発展相らの政府代表団が北方領土の択捉島と国後島を訪問した。五月十六日に松本剛明外相がベールイ駐日大使を外務省に招致し、抗議した。ベールイ大使は日本側の抗議を受け入れなかった。本件に対するロシア側の反応は次の通りだ。

〈イワノフ副首相は日本側の反応に対し、「我々の訪問は、誰かを憤慨させたり、何かを証明するものではなかった」と述べ、今回の南クリル諸島への訪問は、自身にとって3回目から4回目だと指摘し、「なぜか、これより先に私がここへ訪れた時には抗議はなかった」とコメントした。〉(五月十六日ロシア国営ラジオ「ロシアの声」日本語版HP)

「過去に私は何度もクリル諸島(北方領土)を訪問している。しかし、日本政府から抗議されたことは一度もない。なぜ、今回、日本はハードルをあげてきたのだろうか。理解に苦しむ」というのがロシア側の受け止めなのである。第三者的に見た場合、イワノフ副首相の説明にはそれなりの説得力がある。ロシア側は過去にイワノフ副首相が北方領土を訪問したときに日本政府が抗議しなかったことを踏まえた上で、今回の政府代表団の訪問を計画したのだ。

 さらに日本外交の体力低下を見透かして、竹島問題で韓国の一部国会議員がロシアとの提携を図っている。五月二十四日午後、韓国国会の「独島領土守護対策特別委員会」の姜昌一委員長ら野党・民主党議員三人が北方領土の国後島を訪問した。韓国とロシアが連携して、北方領土を封じ込めようとする新たな動きだ。日本政府は、ロシアと韓国に対して抗議したが、両国とも受け付けなかった。

 日本は北方領土問題でかつてなく守勢に立たされている。日本がロシアや韓国の要人に北方領土への訪問自粛を要請しても、それがことごとく無視される状況が続くと日本の立場が一層不利になる。日本の外務官僚は、ロシアと「うわべだけの交渉」を行っている。ロシアは「力による交渉」で日本をねじ伏せようとしている。ここで思い切って発想を転換し、「折り合いをつける交渉」を政治主導で行うことだ。日本政府がロシア政府と協議して、双方の法的立場を毀損せずに北方領土に入域できる「特別のレジーム(仕組み)」を作ればよい。そして、このレジームの中で北方四島の日本化を進め、北方領土返還につなげる方策を追求すべきと思う。
(二〇一一年五月二十八日脱稿)

(了)

〔『中央公論』2011年7月号より〕

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