三木武夫と石破茂は何が違ったのか 50年前にもあった「総理総裁おろし」
竹内 桂(常磐大学准教授)
三木武夫の経歴
三木武夫は1937年4月の衆院選で初当選を果たした。政界で台頭したのは、占領期という特殊な時期であった。1946年4月の衆院選の後、「自由党の左、社会党の右」に位置する新党の結成に失敗し、協同主義(協同組合を中心とする経済体制の構築を目指す主義)を主張する協同民主党への入党を決める。指導者の死去や公職追放により、当選3回で同党を指導する立場となった。
1947年3月に同党は国民党と合併して国民協同党となり、三木は片山哲内閣で逓信大臣として入閣を果たした。続く芦田均(ひとし)首相の辞意表明後には、ダグラス・マッカーサー元帥から後継首班となるよう打診され、固辞したこともある。協同主義を掲げる政党への入党が三木に有力な政治家への栄達をもたらした。
1948年10月に第2次吉田茂内閣が成立して以降、三木は吉田に対抗する野党の立場を取り続けた。他の政治勢力との合従連衡(がっしょうれんこう)を重ね、国民民主党、改進党、日本民主党を経て1955年に結党された自由民主党に参加した。自民党では結党時から1980年6月まで派閥の領袖の地位にあった。小勢力を率いて巧みに政界を渡り歩く様から「バルカン政治家」の異名を取った。