三木武夫と石破茂は何が違ったのか 50年前にもあった「総理総裁おろし」
竹内 桂(常磐大学准教授)
「保守傍流」という位置づけ
三木の評価として「保守の左」というものがある。国民協同党までは政党の党首の地位にあった。しかし、国民民主党から日本民主党の時期には党首とならず、グループの長の立場であった。三木が所属するグループは「革新派」と呼ばれ、党内左派とされた。福祉政策の必要性を強調するなど革新的な政策を主張したこともあり、その位置づけは後々まで変わらなかった。そうした党内におけるポジションと、党近代化の必要性を早くから主張し始めたことで、自民党が結党されて間もない時期からは、進歩性を有する保守政治家という評価がなされていく。
1960年代になると、戦後日本政治における「保守本流」「保守傍流」という概念が広まり始める。ここではこの概念の妥当性は問わない。論者によって「本流」に区分けされる政治家は異なるものの、三木については、どの論者も「傍流」とすることで一致している。三木の反吉田の姿勢、保守合同への反対姿勢、「保守の左」とされる政党の所属歴がこの評価に影響している。
三木自身、「傍流」というポジションには不服であった。しかし、1960年代に吉田茂が再評価され、吉田直系の池田勇人(はやと)、佐藤栄作という二つの長期政権のもとで日本が高度経済成長を謳歌(おうか)するなかで、三木が「本流」とされる余地はなかった。
占領期における有力な政治指導者としての台頭、所属政党の遍歴、革新性のある主張という要素により、三木は所属政党の左派に位置づけられ、進歩性を有する保守政治家というイメージが形成されていった。一度定着したイメージは容易に変わらない。加えて三木自身、自らのイメージを意識した主張を意図的に展開していた節がある。